嘘《うそ》つきみーくんと壊《こわ》れたまーちゃん 幸せの背景は不幸 入間人間《いるまひとま》 [#地付き]イラスト†左 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)藤原基経《ふじわらもとつね》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)精|一杯《いっぱい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] [#ここから3字下げ]  嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 幸せの背景は不幸    もくじ [#地から5字上げ]17行 一章『再会と快哉』[#地から5字上げ]82行 二章『両親と診療』[#地から5字上げ]571行 三章『嘘と嘘』[#地から5字上げ]1260行 四章『崩壊』[#地から5字上げ]1958行 四章、後始末『解放』[#地から5字上げ]2758行  あとがき[#地から5字上げ]3196行 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] 「まーちゃん」  マユの額の髪を指で梳《す》きながら、諦め混じりに問いかけた。 「君、あの子達を拉致っちゃった?」 「うん!」  当たり前のように、元気一杯の返事を頂戴した。  なんか、褒めて褒めてと、今にも言い出しそうだ。  言われたらどうしよう、頭ぐらいは撫でてしまいそうだ。 「ねーねー、みーくんはおうち帰らなくていいの? ていうか一緒に住もうよ」 『は』ってあのね。 「質問と要求を一緒くたにしないように」 「で、で? どーなの?」  人の話なんか聞いちゃいねえ。しかも、目が爛々《らんらん》に輝いている。 「そうだな……。一緒に住む、即ち同棲ってことだよな……」  ……まあ、それもいいか。どうせ、長期的な話でも無いし。 「今日、叔父さん達と話してみるよ。駄目だって言われたら、家出でもしよう」  小学生みたいな結論に落ち着いた。  一方でマユの中では既に確定事項らしく、  夢色な光を瞳が帯びている。 「あー、もっと早く気付いてればなー。修学旅行の班もなー」  口では残念がりながら、妙にうっとりしている。  それに習って僕も表面上は大変残念がってみた。全くの嘘だけど。 「さて、桃色とセピア色のお話は一旦中断して、だ」  首を派手に回し、骨を軋《きし》ませる。  あの和室の中身は、僕の予想通りだった。  やはりこの街には殺人犯と誘拐犯がいて、その片一方はこの、御園《みその》マユだった。  謎は全て解けて犯人はお前なんだけどそれでどうしろと仰《おっしゃ》るんだ。 [#改ページ] 「みーくん、みーくん」  脳天気成分が微塵《みじん》もない、必死な呼びかけ。  無言ながら、髪を撫でてそれに答える。 「みーくんは、わたしのこと苛《いじ》めないよね」 「苛めないよ。まーちゃんの味方だから」 「そうだよね、みーくんは味方。みーくんは味方……」  譫言《うわごと》のように繰り返す。  自身に刷り込むような行動に、口は挟まない。 「みーくんはわたしを助けてくれる。  幼稚園の時も蜂から助けてくれた。  小学校の時も嫌な先生から助けてくれた。  いつだって一緒にいてわたしを助けてくれた。  ずっとずっとわたしの味方。  だからみーくんはわたしを苛めない  一緒にいてくれる一緒に一生裏切らない嘘つかない」 「……よしよし」   お茶を濁《にご》す態度を取った。だって、最後のは、ねえ。 [#改ページ]  まーちゃん、世界で一番キミを××してる。嘘だけど。 [#ここから5字下げ]    嘘つきみーくんと      壊れたま〜ちゃん      幸せの背景は不幸 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] 一章『再会と快哉』  光がこわかった。  外からの光が入ると、いっしょにたくさんのこわさがやってくる。  だけどおなかがすいてるから、まちどおしいとも少し思ってしまう。 「おなかすいた」 「……うん」 「ごはん、まだかな」 「夜にならないと、もらえないよ」 「……でも、ずっとここにいると、夜がいつかわかんない」 「……外が早く夜になるといいね」  それからは、何もしゃべらなかった。  おなかをなかせて。  まっくらな目の前をジッと、ジッと、ジッと見つめて。  そして、光がぼくたちをてらした。 「校長の名前が藤原基経《ふじわらもとつね》で、生徒会長が菅原道真《すがわらみちざね》、二年の学年主任が橘広相《たちばなひろみ》ですよーって書いておけばいいんじゃない?」 「その事実がどんな層への求心力に繋《つな》がるんだよ」  せっかくの意見にもクラス委員の金子《かねこ》は首を捻《ひね》り、唸《うな》った。こっちとしても首を捻りたい問いかけをされたのだから、無理もない。  来年の受験生に対するパンフレットの作成で、我が校の特徴《とくちょう》を片端《かたはし》から尋《たず》ね回っているクラス委員に教室の入り口で捕《つか》まっていた。しかし、当校は、いや街自体が基本的に何の取《と》り柄《え》もない田舎《いなか》だから、親が冗談《じょうだん》で名付けたと邪推《じゃすい》してしまいそうな姓名《せいめい》の学校関係者を羅列《られつ》することぐらいしか思い浮かばない。これが精|一杯《いっぱい》の回答だった。 「他《ほか》には……この前当校の学生が惨殺《ざんさつ》されましたとか……」 「そりゃマズイだろ」  金子が苦い顔で却下《きゃっか》する。少々、不謹慎《ふきんしん》だったか。 「まあ、自由な校風とか開放的とか、そんな感じに書いておけばいいんじゃないかな」  最後は、個性と捻りのない凡庸《ぼんよう》な返答に落ち着いた。金子は、それは聞き飽《あ》きたといったように苦笑してから、軽く息を吐《は》いた。 「本当はさ、こんなことしてねーでとっとと部活行きたいんだよね」 「部活? 今は危険だがらって禁止のはずだろ?」 「大会近いのに、うちの部長がそんなこと認めるかよ。深夜まで未公認《みこうにん》でバリバリだよ」  金子が夜更《よふ》かしを自慢《じまん》する小学生みたいに得意気でいると、その背中を押すように女生徒が現れた。同級生の御園《みその》マユだった。押し退《の》けるように金子と扉《とびら》の間を抜《ぬ》け、廊下《ろうか》に出ていく。 「あ、ちょっと」  金子が咄嵯《とっさ》に、その背中に呼びかける。御園さんは、普段《ふだん》の落ち着いた印象とは異なり、睨《にら》みつけるように振《ふ》り返った。 「なに?」 「あ、いやー……」  その喧嘩腰《けんかごし》の態度に気圧《けお》されたように、金子はだらしない笑《え》みを浮かべて目を泳がせる。こちらに横目で助けを求めていることに気付いても、無視して御園さんをジッと見つめていた。 「……なに?」  もう一度問いかける。表情に、怪訝《けげん》を伴《ともな》って。  御園マユはなかなかに美人と評価する。いや、正直に言えばかなり美人、いやいやとてつもなく美人と個人的に判定する。ようするに、大変好ましい。花丸だ。  セミロングの髪《かみ》は一度染めてから飽《あ》きたのか、茶髪《ちゃぱつ》の残骸《ざんがい》が黒髪《くろかみ》に埋《う》もれている。ブレザーの裾《すそ》から覗《のぞ》けるシャツは、蒸《む》し暑い十月上旬に真っ向勝負を挑《いど》む長袖《ながそで》だった。 「わたし、用事があるんですけど」  同級生にも、御園《みその》さんは丁寧《ていねい》語で接する。他人への拒絶《きよぜつ》を図《はか》る姿勢。けれどそれは、壁《かべ》ではなく、牽制《けんせい》として取れる。  人を怖《こわ》がっている小動物が、御園さんに対しての印象だ。 「呼び止めてごめん。急ぎの用があるなら、別にいいんだ」  金子《かねこ》の代わりに答える。御園さんは「そうですか」と小さく呟《つぶや》き、階段の方へ足早に、しかし左右に落ち着かない足取りで向かっていった。  その背中を眺《なが》めながら、金子が肩の強張《こわば》りを解いて軽く深呼吸する。 「御園って、あんな怖かったっけ」 「さあ……。節分の鬼《おに》役の予行演習でもしてるんじゃないかな」  本当はあの態度の理由を、九割九分九|厘《りん》の確信を持って説明することは出来る。金子は尚《なお》も首を捻《ひね》っていた。さっきから首が垂直《すいちょく》に戻《もど》っていない。 「最近ミョーに帰るの早いし……」  軽く訝《いぶか》しみながら、教室を振《ふ》り返る。こちらも釣《つ》られて横目で見る。  まだ教室には、ほとんどの生徒が残っている。教科書を詰《つ》め込む者、隣《となり》近所と談笑する者とそれぞれではあるけど、御園さんの席が廊下《ろうか》から最も遠い場所であることを考慮《こうりょ》すれば、異例の速さといえる。 「用事があるなら、別に普通《ふつう》だと思うけど」 「毎日あんの?」 「あるんじゃない? かーちゃんが入院して見|舞《ま》いとかいくらでもさ」  嘘《うそ》だけど。 「それにどーせ聞いたって、聞き飽きたような答えが返ってくるだけだよ」  適当なフォローをする。金子は気が抜《ぬ》けたように頭部を人差し指で掻《か》いてから、ようやく首を真っ直《す》ぐに戻した。 「ま、そーなんだろうけどさ、でも、あいつが自由とか開放的とか言っても、違和《いわ》感があるよなあ」 「そうだね」  そんなこともない。反論の余地はあったけど、早めに会話を切り上げるために、適当に同意しておいた。 「それじゃ、そろそろ帰るよ」 「ん、ああ。また明日な」  大雑把《おおざっぱ》に手を振り合って別れ、廊下を歩き出す。廊下は、温い昼下がりの日光を浴びて、停滞《ていたい》した空気を形成している。そんな、温かみで淀《よど》んだ空間を足早に突《つ》っ切り、隣《となり》のクラスを横目で眺《なが》めながら階段を一段飛ばしで下りていった。  そして昇降口の下駄《げた》箱で、慌《あわ》てたように靴《くつ》を履《は》き替《か》える御園《みその》さんが、校門を出て十秒|経《た》ったことを確認《かくにん》して、その背中を一定の距離《きょり》を開けて追い始めた。  今日の放課後は、探偵《たんてい》ごっこをして遊ぼうと決めていた。  ここは田舎《いなか》で取《と》り柄《え》のない街だけど、最近はテレビという全国ネットで名前を挙げられる機会が増加し、主に警察の注目が集まっている。二つの事件が起きたからだ。まあ、犯人は同一犯の可能性もあるから、二件として扱《あつか》うかは人それぞれだ。  連続殺人事件と、 一つの失踪《しっそう》事件。  ここ何ヶ月もの期間に街を襲《おそ》っている、悪意の極《きわ》み。特に殺人事件なんて、この街で起きたのは、侍《さむらい》が刀《かたな》を振《ふ》り回していた時代まで遡《さかのぼ》らなければ確認《かくにん》出来ないほどの大事件に等しい、とまで言ってしまえばそれは言いすぎの領域《りょういき》に入るけど、とにかく八年に一度の出来事には違《ちが》いない、  四十代の中年のオッサンが、公民館の脇《わき》の路地で惨殺《ざんさつ》死体として発見されたのが皮切り。胸元を刃物《はもの》で抉《えぐ》られたのが死因だが、その後目玉は刳《く》り抜《ぬ》かれ、左手は指が全《すべ》て切断され、耳は半分だけ切り込みが入れてあった。犯人の遊戯《ゆうぎ》の一環《いっかん》と見られ、精神障害者と世間で騒《さわ》がれた。次は、七|歳《さい》になる小学生の男の子。今度は、顔面が原形を留《とど》めないほど刃物で貫《つらぬ》かれていた。この事件以来、小学校では集団登下校を実施《じっし》し、授業|終了《しゅうりょう》の日程も昼までとされて警戒《けいかい》に当たっている。自治会も夕方には総出で巡回《じゅんかい》を行い、殺人鬼《さつじんき》を払拭《ふっしょく》するべく警察の協力も全面的に得られた。それでも今現在、犯行の防止、犯人《はんにん》の割り出しに高い効果は見受けられない。  そして更《さら》に、殺人以外に発生したのが三週間前の失踪《しっそう》事件だ。小学四年生の男子と、二年生の女子の兄妹《きょうだい》が、黄昏時《たそがれどき》に失踪した。外で不用意に遊ばないというお達しを町内全体で流していたけど、効果はなかったらしい。今までの事件とは異なり、死体が発見されることはなく、誘拐《ゆうかい》されたのではないかと世間では噂《うわさ》されている。その為《ため》、既存《きぞん》の殺人事件と同一犯と捉《とら》えるかは、警察でも悩《なや》みどころらしく、両方の線で捜査《そうさ》を進めている、と週刊誌《しゅうかんし》で取り上げられていた。更にその雑誌は、取り分け誘拐という出来事を強調して特集ページまで設けて、過去の事件と結びつけようとしていた。 「…………………………」  御園さんを尾行《びこう》し始めて、二十分以上|経《た》っていた。  遺憾《いかん》ながら尾行初|挑戦《ちょうせん》の身の上であり、ましてストーカー経験があるわけでもない故《ゆえ》、毛も生えていない素人《しろうと》と言わざるを得ない。その為、尾行する際の適切な距離というものが十分に掴《つか》めない。本でも買って勉強しておくべきだったかと、僅《わず》かに後悔《こうかい》の念が過《よぎ》る。  御園《みその》さんの背中が辞典ほどの大きさに見える程度に距離《きょり》を取って歩く。田舎《いなか》の、人通りのないたんぼ道を通っているから、不穏《ふおん》な空気を感じた際に身を隠《かく》す遮蔽《しゃへい》物もない。振《ふ》り向かれたら、用水路にでも飛び込む覚悟《かくご》と準備が必要だ。しかし幸い、御園さんは背中など気にかけることもなく帰宅路を進んでいる。本人的には急ぎ足のつもりらしいその足取りは、左右に揺《ゆ》れて定まらず、かといって熱に冒《おか》されているわけでもない。  やがて、舗装《ほそう》された道路に入り始める。ぽつぽつと一軒家《いっけんや》も見受けられるようになり、他人の生活区に踏《ふ》み込んだ気分になった。  御園さんは額や首筋の汗《あせ》をハンカチで拭《ふ》いている,夏服でも汗が浮かぶような気候で、相当に熱気を帯びているのだろう。それでも、猫背《ねこぜ》の前傾《ぜんけい》姿勢で減速はしない。途中《とちゅう》、犬の散歩をしていた爺《じい》さんに会釈《えしゃく》されたけど、御園さんの狭《せま》い視界には入っていなかったらしく、完全に無視していた。仕方なく、爺さんとすれ違《ちが》った際に代役として二度頭を下げておいた。爺さんは、首を傾《かし》げて意味を窺《うかが》うように犬を見ていた。 「しかし、意外と遠いな……」  自転車の使用を考慮《こうりょ》すべき距離だ。けど御園さんが自転車に乗れないことは知っている、平衡《へいこう》感覚が正常ではないのだ。そのうえ、遠近感も満足に掴《つか》めていない。だから御園さんは階段を昇降《しょうこう》する際に、手すりが必須《ひっす》となる。バレーボールでもボールに触《ふ》れることさえ叶《かな》わず、バスケットボールではパスされたボ!ルを顔面で受け止め、放《ほう》ったシュートがリングどころかボードにも当たらないことだってある。……断っておくがストーカー情報ではない。今の行いは純然たるストーキングに思えるかも知れないが、それは似て非なるモノだ。  住宅街に入る。田舎の土地持ちが高値で売却《ばいきゃく》した田園の跡地《あとち》の上には、建て売り住宅の看板が目立つ。数年前から掲《かか》げているはずだけど、その看板が減った記憶《きおく》はない。明らかに失敗だ。企業はまず、自分がこのような頭にドの付く田舎に在住したいかを想像してから建設に踏み切るべきだ。  人気のない建築物の群れを通り過ぎて、御園さんは交差点を越《こ》えた先にあるスーパーへ向かっていく。彼女が信号のない道路を越える際、右足に左足を引っかけて転倒《てんとう》しそうになり、そのまま飛び出して支えたくなったが、拳《こぶし》を握《にぎ》って堪《こら》えた。  御園さんはよたつきながら駐車《ちゅうしゃ》場を通ってスーパーの店内に入っていく。外にある花と野菜の売り場は、時間帯の為《ため》か客の姿も疎《まば》らだった。店内まで深追いはせずに、少し離《はな》れた自販機《じはんき》の前で、何を買うか迷《まよ》っているように装《よそお》い、買い物を済ませるのを待つことにした。 「…………………………」  失踪《しっそう》事件にまき込まれたのは、ここから近場の小学校の生徒だった。今も、そして昔も。  八年前にも一度、失踪事件が起きた。三十代の男性が小学三年生の男女を誘拐《ゆうかい》し、一年近く監禁《かんきん》して、暴行と性的|虐待《ぎゃくたい》を与《あに》えた。最後は犯人の死亡で解決したその事件を彷彿《ほうふつ》とさせるような今回の件で、第二の彼がこの街に、と噂《うわさ》になっている。つまり皆《みな》、失踪ではなく誘拐事件が再発したと捉《とら》えているのだ。  しかしこれは、偏見《へんけん》の一種じゃないかと憤慨《ふんがい》したくなる。誘拐《ゆうかい》犯が、彼女である可能性は考慮《こうりょ》してないのか、と尋《たず》ねてやりたい。別に営利誘拐であるなら女性だって行うだろうし、弄《いじく》り抜《ぬ》いて殺害するのが趣味《しゅみ》だとしても、不都合は一切ない。全く、女性に失礼だ。女牲|蔑視《べっし》も甚《はなは》だしい。  社会|貢献《こうけん》度の高い問題について一人で黙考《もっこう》し、自販機《じはんき》の冷たいのボタンを押して出てきた生温かいお茶を飲みながら、御園《みその》さんの買い物を待ち続ける。 「…………………………」  とかく女性は買い物にかける時間が長いという、じゃあ男は買い物が短くないと示しがつかなくなって面倒《めんどう》じゃないか、と捻《ひね》くれた意見を唱《とな》えたくなるような言葉があるけど、当てはまる事例を体験すれば、正鵠《せいこく》を射《い》ている気がしてくるものだ。 「……なげぇ」  七本目のお茶を飲み干《ほ》し、缶《かん》をゴミ箱に投げ捨てる。段々と気持ち悪くなってきた。プールで溺《おぼ》れた時のように眉間《みけん》が痛い。既《すで》に四十分近く自販機の前でお茶吸引係を担《にな》っている。時を同じくして商品を納入しに来たトラックのお兄さんが、仕事を終えて駐車《ちゅうしゃ》場に戻《もど》ってきた時に、変わらない光景を見て、怪《あや》しい人を見る視線を投げかけてきた。誘拐犯と思われたかも知れない。好青年っぽく会釈《えしゃく》をしてみた。殺人犯と思われたかも知れない。  そんな心温まる交流を経てから更《さら》に二十分、計一時問をティータイムに費やしようやく、御園さんは袋《ふくろ》を左手に提《さ》げて戻《もど》ってきた。時間と品数がとても噛《か》み合っていないことが、胃の中で揺《ゆ》れるお茶の虚《むな》しさを増加させる。  自販機の周囲を回り、御園さんの視界に入らないようにやり過ごす。彼女の袋からはみ出た林檎《りんご》は何度も万有引力の法則に従うように落ちる。それを拾い上げることを繰《く》り返しながら交差点に引き返し、クラクションを鳴らされながらよたよたと渡《わな》る。もしこの場で御園さんが轢《ひ》かれたら、即座《そくざ》に駆《か》け寄るか脱兎《だっと》の如《ごと》く逃走《とうそう》すべきか迷いながら、速《すみ》やかに交差点を渡った。  御園さんは交差点を右に進んで、新興住宅街の中心部へ向かう。そのアパート、マンションといった貸家が並ぶ地区に、一人暮らしの女子の住処《すみか》はある。水色という微妙《びみょう》な彩色《さいしき》の壁《かべ》のマンションに、御園さんは林檎を落下させながら吸い付いていく。そして、入り口に吸い込まれた。放置された林檎を拾い上げて、彼女がエレベーターに乗ったことをガラス越《こ》しに確認《かくにん》してから入り口の自動ドアを通り抜けた。  入り口よりすぐのホールから廊下《ろうか》を越《こ》えると、芝生《しばふ》の目映《まばゆ》い庭が広がっている。一階は様々な店舗《てんぽ》が集《つど》っていて、下見した時にはCD屋に本屋、それに漫画喫茶《まんがきっさ》まで備わっていた。実に荘厳《そうごん》で立派な、学生が暮らすにもこの街自体にも不相応すぎる場違《ばちが》い空間だけど、今はそれについて論じている余裕《よゆう》はない。玄関《げんかん》ホールにオートロック設備がない、中途半端《ちゅうとはんぱ》に田舎《いなか》が混入した建築に感謝しながら脇《わき》にある非常階段を駆《か》け上がり、エレベーターと同じく三階へ向かった。  水色の扉《とびら》を開き、三階の外側、階下を一望できる通路に顔を出す。御園《みその》さんは既《すで》に、住居である三〇七号室の前へ到着《とうちゃく》し、扉の穴に鍵《かぎ》を差し入れていた。そこで手間取っているのか、しきりに手首を捻《ひね》り、鍵を入れ直し、荷物を足の脇《わき》に置いて四苦八苦している。それを観察しながら、考える。  ここまで、スーパー以外に御園さんの寄り道はなかった。やはり、自宅が本命なのか。そうなると御園さんのお家《うち》にお邪魔《じゃま》したいところだけど、流石《さずが》にマンションであるから、ドアにチェーンぐらいはある。チェーンを外側から解除《かいじょ》する手筈《てはず》は整っていないし、それ以前に鍵開けの技術も習得していない。泥棒《どろぼう》ごっこはとても無理だ。  そして彼女が来訪者の姿を確認《かくにん》して、チェーンを解除することも、室内に招き入れることもないだろう。  ……だったら、方法は一つ。  自分で開けられないなら、家主に開けてもらえばいい。  ようやく錠《じょう》が解けたのか、穴から鍵が引き抜《ぬ》かれる。汗《あせ》を一拭《ひとふ》きし、ドアノブに手が掛《か》かる。  頃合《ころあ》いだ、と口に出して鼓舞《こぶ》し、引き返せない場所へ足を踏《ふ》み出す。  小走りで駆《か》け寄り、さも当然のような振《ふ》る舞《ま》いで、 「あ、荷物は持つよ」  ビニール袋《ぶくろ》を拾い上げ、半ば御園さんを押し退《の》けるように入り口の扉をすり抜《ぬ》けた。 「……えっ?」と御園さんが虚《きょ》を突《つ》かれている隙《すき》に、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》を演じて玄関《げんかん》に上がり込む。靴《くつ》を適当に脱《ぬ》いで、足音を強く立てて居間へ向かう。 「ちょっと! なんなんですか!」  御園さんが侵入者《しんにゅうしゃ》を引き留めようとしても、完全に無視した。整えられたリビングに入る。八分目まで踏《ふ》み込み、振り返ってから拾い物の林檎《りんご》を断りなく齧《かじ》った。 「広いし、片づいている部屋だね。けどテレビの上に埃《ほこり》が積もってる。物が少ないから綺麗《きれい》に見えるのかな?」  テーブルに荷物を置き、平常通りの態度で御園さんに尋《たず》ねた。振り向くと、御園さんが殺気立った、能面顔で距離《きょり》を取っていた。黒い眼球は輝《かがや》く虹彩《こうさい》を覆《おお》うように細められ、手近にあった花のない花瓶《かびん》を武器として構えている。同級生の来訪を歓迎《かんげい》する態度でないのは明白だ。 「貴方《あなた》、なに?」 「何かは分からないけど、誰《だれ》かは分かる、君の同級生だよ」  茶化すように答えてから、齧りかけの林檎をテーブルに転がした。そして、横目でこの部屋の奥を確認《かくにん》する。鉄筋コンクリートの洋室の一角に備わった部屋は、臙脂《えんじ》色の襖《ふすま》が隙間なく閉じられていた。造りからして和室かな。 「あの……帰ってくれますか? 迷惑《めいわく》なので」  能面顔《のうめんがお》で落ち着き払《はら》っていることを演出しながらも、数秒ごとに横目で和室へ眼球が動いている。その正直さは、小学校の先生なら褒《ほ》めてあげるところだ。 「君が望むなら、すぐ帰るよ。けど、相手の意向は聞いてあげないのかな」 「……なんのこと?」 「こんなこと」  和室の方へ身体《からだ》を向けた。けれど背後で一歩、強く床《ゆか》を踏《ふ》み込む音を聞いて、咄嵯《とっさ》に横に飛び跳《は》ねた。ソファを掴《つか》んでベリーロールのように飛び越《こ》えながら、今し方まで立っていた場所に腕《うで》を突《つ》き出す御園《みその》さんを見た。その両手には花瓶《かびん》と、高圧電流を発生させる、護身用の武器が握《にぎ》られていた。 「過激だな。けど残念だったね失敗したね。今のが最後の機会だった。本当なら入り口で、君はそれを使うべきだった」  距離《きょり》を取れば、御園マユがどれ程《ほど》の狂気《きょうき》の下《もと》にどんな凶器《きょうき》を手にしても恐怖《きょうふ》に値《あたい》しない。  御園さんは、無表情に近い怒《いか》りをぶつけてくる。ペン型のスタンガンを胸元に構え、一定の距離をすり足で取る。激昂《げきこう》して飛びかかってくる気配はない。 「あなたは、知ってるの?」 「勿論《もちろん》」  勿論、何も知らない。  御園さんが尋《たず》ねたいこと、正しいこと、社会的どーとく、りんり、御園さんの好きなモノ、人付き合いの仕方、林檎《りんご》の栄養素。全《すべ》てを知る由《よし》もない。一つだけ、嘘《うそ》だ。 「無駄《むだ》だよ。たとえ今この状況《じょうきょう》で、御園さんが機関銃《きかんじゅう》を取り出しても殺されない自信がある」  ハッタリ大好きです、はい。  御園さんが和室の前へ回り込む。その存在自体が嘘をつけないような態度に、普段《ふだん》どうやって生活出来ているのか本気で尋ねたくなった。 「よっぽど大事なんだね。その部屋自体が大切、かも知れない。或《ある》いは、地位か名誉《めいよ》か財産が具現したモノを保管してある。それとも、致命《ちめい》と成りうるモノでもあったりして」  具体的な名詞《めいし》は出さずに表面をなぞる。御園さんは目立った反応を見せない。  何処《どこ》まで追いつめると発狂するか臨界《りんかい》点が見えないので、悪ふざけは終《しま》いにするとしよう。  今日は別に御園さんを苛《いじ》めに来たわけじゃない。  そして彼女の罪を明らかにする為でもない。 「久しぶりだね」  一拍《いっぱく》置いて唇《くちびる》を舐《な》め、こういう時に微笑《ほはえ》みを伴《ともな》えば人間らしさの項目《こうもく》に優の評価が下されるのかと思いながら、  種明かしのようにその名を口にした。 「まーちゃん」  スタンガンと花瓶《かびん》が、同時に床《ゆか》へ落下した。  御園《みその》さんの肩《かた》が、第三者が端《はた》から見ればいじめられっ子のように頼《たよ》りなく震《ふる》える。  御園さんの子鹿《こじか》のような足が、 一歩|距離《きょり》を詰《つ》める。  彼女の瞳孔《どうこう》が限界まで収縮《しゅうしゅく》と膨張《ぼうちょう》を繰《く》り返し、肩の震度《しんど》は一層、増大する。 「覚えてる?」  意識することなく優《やさ》しい声音《こわね》で尋《たず》ねた。彼女の足が、更《さら》に近寄る。 「みぃ、くん?」  ……八年|振《ぶ》りの懐《なつ》かしい名称《めいしょう》だ。 「まーちゃん」  大げさに御園マユの肩が反応した。それを静めるように、御園マユの、骨の目立つ身体《からだ》を抱《だ》きしめた。彼女の香《かお》りと、汗《あせ》の匂《にお》いが鼻腔《びこう》に届いた。 「みーくん……?」  まだ信じられないといったように、呆然《ぼうぜん》とその名を呼ぶ。 「よしよし」 「みーくん」 「よしよし」 「み、くん……」  背中を、ぽんぽんとあやすように叩《たた》いた。  それだけで、決壊《けっかい》した。 「う……わああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  壊《こわ》れたような絶叫《ぜっきょう》を、身体全体を使ってマユがあげた。だくだくと溢《あふ》れた冷たい涙《なみだ》が、から肩にかけてを伝い、雨後のように周辺を濡らした。 「みーくん! みーくんみーくんみーくんみーくんみーくん!」  背中を抱かれたまま、マユは何度も何度も、名を叫《さけ》んだ。  最後は泣き崩《くず》れて、足下《あしもと》に蹲《うずくま》った。  彼女は、単なる同級生ではない。  一緒《いっしょ》に嬲《なぶ》られ。  一緒に壊され。  一緒に狂《くる》った。  そんな、望まない関係。  僕と御園《みその》マユは、八年前の誘拐《ゆうかい》事件の被害《ひがい》者だった。  砕《くだ》けた花瓶《かびん》の掃除《そうじ》をして、状況《じょうきょう》が落ち着いたのは三十分以上が過ぎてからだった。 「ごめん。少し悪戯《いたずら》してみたかったんだ」  ソファに腰《こし》かけ、マユの髪《かみ》を指で梳《す》きながら、僕は謝罪する。マユは未《いま》だに涙《なみだ》を流し、頬《ほお》を膨《ふく》らませながら、それでも僕の腕《うで》の中に収まっている。 「みーくんのばか。わたし、すっごくドキドキしたんだから」 「僕だってドキドキしたぜ」  というかビリビリになるところだった。そしてドカバキとなって骨をメコメキャッとされてズタボロになるところだった。 「取り敢《あ》えずこれは没収《ぼっしゅう》」  子供の手の届くところにこんな物は置いていけません。掃除のついでに僕がスタンガンを拾っても、マユは反応を示さなかった。そんな物は既《ずで》に眼中になさそうだった。 「ばーかばーか。みーくんのばーか」  幼児退行気味なマユの台詞《せりふ》。落ち着いて控《ひか》えめな同級生である御園マユの姿は、完全に霧散《むさん》していた。 「それになんで今まで言ってくれなかったの」 「最近まで気付かなかったんだ。ほら、僕は君の名前を知らなかったし」  嘘《うそ》の理由を述べた、けれど、マユは不満顔を崩《くず》さない。 「うそつき。昔ずっと一緒《いっしょ》に遊んでたのに、知らないわけないもん」 「おお、名|推理《すいり》。賢《かしこ》い」  頭を撫《な》でてごまかす。別に隠《かく》す理由もないけど、言ったところで理解出来ないだろうし。 「マユは頭がちっちゃいなあ。まるでお、」  ぐい、と唇《くちびる》に指を押しつけられた。マユはぐるりと回転し、僕と向き合う形になる。 「マユじゃないの。まーちゃん」  唇が解放される。……うーむ。 「この歳《とし》でまーちゃんと呼ぶのはちょっと恥《は》ずかしいっつーか……」 「だーめー! みーくんはわたしのことをまーちゃんって呼ぶの!」  じたばたと、マユが子供っぼく暴れる。いや、子供そのもの。 「それにみーくんも、猫《ねこ》の鳴き声っぽいし」 「猫でいいじゃないかー! 不都合あんのかー!」  ないと思ってんのか、なんてこれは並行世界の僕の台詞《せりふ》より抜粋《ばっすい》ですよ。 「みーくんはみーくんでわたしはまーちゃんなの! 決まってるの不可分なの!」  涙《なみだ》を流しながら力説されると、もの凄《すご》く真摯《しんし》かつ重大な願いに聞こえるから不思議だ。僕はその場の雰囲気《ふんいき》に飲まれたのか、結局勢いで頷《うなず》いて了承《りょうしょう》してしまう。 「やっぱそうだよな。みーちゃんだと青い機械人形のスケっぽいし、まーくんだとマスコットっぽいもんな」 「うんうん! みーくん賢《かしこ》い!」  泣き笑いで顔をぐしゃぐしゃにしながら、今度はマユが僕の頭を撫《な》でてくる。何だか、致命《ちめい》的に、どうしようもない間違《まちが》いをしていると心の奥底で理解はしているんだけど、それを具体的に語り、対処する方法は思い浮かばなかった。そもそもこんな状況《じょうきょう》で頭を働かせることが、間違いであるように思えてならない。 「わたしね、ずーっと待ってた。みーくんがね、まーちゃんってわたしのこと呼んで、目の前にきざったらしく現れてくれるの」 「……それはそれは」  本当に待ってたのか。 「……そういえばあの部屋、ちょっと見ていい?」  奥の和室に目を向ける。 「いいよ!」  快諾《かいだく》し、マユがぱっと離《はな》れる。そして僕が立ち上がると、背中から首に手を回して、ぶら下がってきた。少し息苦しくなったけど、そのまま子泣き娘《むすめ》を背負って和室へ向かった。そこにあるモノが、予想外のモノであることを願いながら。  襖《ふすま》に手をかけて気負いなく開いた。誘拐《ゆうかい》された小学生の兄妹《きょうだい》がいただけだった。 「……ふむぅ」  一度襖を閉じて、Uターン。ソファに尻《しり》を返還《へんかん》し、テレビの電源を入れた。若い男女が平日の昼間から遊園地で遊びほうけていた。観覧《かんらん》車に乗り、彼氏が彼女の靴《くつ》の匂《にお》いを嗅《か》いでいる。  マユが膝《ひざ》の上に寝《ね》っ転がってきたので、それに応対しながら呼吸を整えた。 「甘《あま》ったるいドラマは好きくないのです」  そんな戯言《ざれごと》をどの口か存じ上げないがほざいて、、マユはリモコンを僕の手から奪《うば》い、『8』を押した。番組はバラエティに変わったけど、その前に我が身を振《ふ》り返ろうと提案したくなった。 「まーちゃん」  マユの額の髪《かみ》を指で梳《す》きながら、諦《あきら》め混じりに問いかけた。 「君、あの子達を拉致《らち》っちゃった?」 「うん!」  当たり前のように、元気|一杯《いっぱい》の返事を頂戴《ちょうだい》した。なんか、褒《ほ》めて褒めてと、今にも言い出しそうだ。言われたらどうしよう、頭ぐらいは撫《な》でてしまいそうだ。 「ねーねー、みーくんはおうち帰らなくていいの? ていうか一緒《いっしょ》に住もうよ」 『は』ってあのね。 「質問と要求を一緒くたにしないように」 「で、で? どーなの?」  人の話なんか聞いちゃいねぇ。しかも、目が爛々《らんらん》に輝《かがや》いている。学校での性格はハリボテだったのかな。童女《どうじょ》の立ち振《ふ》る舞《ま》いが自然すぎる。 「そうだな……。一緒に住む、即《すなわ》ち同棲《どうせい》ってことだよな……」  学生が同棲で清々《せいせい》な交際をしろと。しかし最初から汚れのついた人間に清川《せいせん》の如《ごと》き付き合いを求めるのは酷《こく》だろう。それに僕は一応、叔父《おじ》の家で扶養《ふよう》されている身|故《ゆえ》、保護者の認可《にんか》が下りなければいけない。 「一緒に学校行って、一緒にご飯食べて、一緒にお風呂《ふろ》に入って一緒に寝《ね》る。良くない?」 「いや、いいけどさ。でも、生活費とか……」 「わたしが出すからだいじよーぶ!」  ヒモへの誘惑《ゆうわく》が襲《おそ》ってきた。  ……まあ、それもいいか、どうせ、長期的な話でもないし。 「今日、叔父さん達と話してみるよ。駄目《だめ》だって言われたら、家出でもしよう」  小学生みたいな結論に落ち着いた。一方でマユの中では既《すで》に確定|事項《じこう》らしく、夢色な光を瞳《ひとみ》が帯びている。 「あー、もっと早く気付いてればなー。修学旅行の班《はん》もなー」  口では残念がりながら、妙《みょう》にうっとりしている。それに倣《なら》って僕も表面上は大変残念がってみた。全くの嘘《うそ》だけど。 「さて、桃色《ももいろ》とセピア色のお話は一旦《いったん》中断して、だ」  首を派手に回し、骨を軋《きし》ませる。あの和室の中身は、僕の予想通りだった。やはりこの街には殺人犯と誘拐《ゆうかい》犯がいて、その片一方はこの、御園《みその》マユだった。謎《なぞ》は全《すべ》て解けて犯人はお前なんだけどそれでどうしろと仰《おっしゃ》るんだ。  事前に予想していようと、事実に直面したら予想以上の衝撃《しょうげき》を事後に受けた。 「普通《ふつう》さあ、同棲生活開始時のイベントって、もうちょっと痴話《ちわ》な感じだろうにさあ……。ものっそいクリミナルな問題|抱《かか》えていちゃつけってのか……」  頭を抱えたくなった。そして投げ飛ばして交換《こうかん》したくなった。ええい新しい顔はまだか。 「にゃにゃ、どったの? 顔が死に損《そこ》ないみたいな青色になってるよ」  妄想《もうそう》から復活したマユが僕の頬《ほお》を突《つ》いてくる。「んにゃ?」だの「ぬぬ?」だの幼稚《ようち》な仕草と言葉で僕の顔を覗《のぞ》き込み、納得《なっとく》したようにパン、とマユが柏手《かしわで》を打った。 「お腹《なか》空いたんだね!」 「そうだね……。問題も溢《あふ》れ返るほどなんだ、ついでに腹の中身も埋《う》めようか……」  うへ、うへへへ。などと自暴自棄《じぼうじき》になっている場合ではない。テレビの上の時計は短針が5を通り過ぎ、長針が8の真上に来ていた。叔父《おじ》達なら、既《すで》に食事を終えている時間だ。 「みーくんはくいしんぼだからねえ」  親戚《しんせき》のオバサン風に言われた。マユが膝上《ひざうえ》から飛び跳《は》ね、テレビと僕の間に立ち、腰《こし》に手を当ててふんぞり返る。 「ではこのまーちゃんがご飯を作ってあげよう!」  テレビによる後光が一種神格化を促《うなが》し、思わず密教の信者の如《ごと》くひれ伏《ふ》すところだった。 「じゃあお願いします」 「何食べたい? 何でも作れるよ」 「まーちゃんの嫌《きら》いなもの」  底意地の悪い脊髄《せきずい》が最速で反応した。止まりかけていた涙《なみだ》が、またマユの目尻《めじり》に充満《じゅうまん》する。 「ジョーク、ジョークだよエスペラントジョーク。まーちゃんの好きなものがいいな。お前の好きなものは僕の好きなものってやつだよマヂマヂ」  駅前の勧誘《かんゆう》より拙《つたな》い褒《ほ》め言葉だった。けれど、マユは目の潤《うる》みを潮のように引かせながら、 「まかせて!」と請《う》け負ってスリッパも履《は》かずにリビングの奥ヘダッシュしていった。効果は抜群《ばつぐん》である。  ごん、という鈍《にぶ》い音に引かれて、僕も後に続いてみる。  奥は、当たり前だけどキッチンだった。一見すると整頓《せいとん》されているようで、されていない。物の置き方が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だった。包丁《ほうちょう》が箸《はし》と同じ場所に纏《まと》めてあるのはどういうことだ。  マユは額を赤に染めながら、エプロンを棚《たな》から取り出していた。制服の上から赤色のエプロンを着ける。そしてはにかみながら僕の前に立つ。 「どお? 似合う?」  上目|遣《づか》いの目線で感想を求めてきた。  手頃《てごろ》な称賛《しょうさん》を即座《そくざ》に思いつかなかったので、マユを抱《だ》きしめた。それだけで、感想の肩代《かたが》わりには十分だった。 「みーくん、大好き」  身体《からだ》を離《はな》すと、頬《ほお》を紅潮させ、僕が浮かべることは一生涯《しようがい》あり得ない、魅力《みりょく》の塊《かたまり》の笑顔《えがお》を向けてくれた。 「式はいつにする?」 「マテ」  いきなり婚姻《こんいん》関係が成立していた。 「最初は女の子がいいなー」  子供まで出来ていた。天空の花嫁《はなよめ》ですか君は。  何とか煙《けむ》に巻くため、周囲を見|渡《わた》して話題を探る。そしてキッチンには何もなかったけど、棚上《たなあ》げにしていた問題を思い起こし、尋《たず》ねてみる。 「あの子達の夕食は? 一緒《いつしよ》に作るの?」  マユが僕の腕《うで》の中から離《はな》れて、冷蔵庫に括《くく》り付けてあった袋《ふくろ》から、「これ」とロールパンを二つ取り出した。 「……駄目《だめ》だ、もう少し食べさせてあげないと」 「えー、なんで?」 「何でも。料理は出来るんだろ、ちゃんと美味《おい》しいもの食べさせてあげなさい」  ぶすっと、マユは膨《ふく》れっ面《つら》になる。パンもとばっちりで握《にぎ》り潰《つぶ》される。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、だってわたしたちと一緒だよ? ううん、もっと少なかったよ。お水も好きなだけ飲ませてあげてるし」 「そうなんだけどさ……」  基準が底辺すぎるんだ。 「こっちの都合で連れてきたんだから、それぐらいはしてあげないと駄目。僕らの時も、お腹《なか》が空いて苦しかっただろ」  そして餌《えさ》を貰《もら》うために、僕たちは『芸』を強制的に行わされた。そう、餌。あの時の僕らが行為《こうい》の果てに得た報酬《ほうしゅう》は食事ではなく、そう表記するのが正しかった。そんな、『芸』だった。  マユは不満げながらも、小さく首を縦に振《ふ》った。 「みーくんが言うなら……」 「僕はまーちゃんに命令しない。これはお願いだよ。まーちゃんの意志で、二人に食べさせてほしい。勿論《もちろん》、お願いだから断ることも出来る」  偽善《ぎぜん》に満ちた台詞《せりふ》に、言っている本人が辟易《へきえき》しそうになった。こう言われて、マユが断るはずもないのに。自身の心根の醜《みにく》さは、寒気に値《あたい》する。 「分かった、けど……。じゃあ、じゃあねみーくん。わたしのお願いも後で聞いてね」  名案を閃《ひらめ》いたように、パッと笑顔《えがお》に戻《もど》る。勿論《もちろん》お願いだから断ることも出来るのだけど、そこまで理|詰《づ》めで感情を叩《たた》き斬《き》ってどうするのだろうか。僕は頷《うなず》いた。 「よっしゃー! じゃ、待っててね!」  潰れたパンを机に放《ほう》り、冷蔵庫を勢いよく開ける。僕はその光景を少し眺《なが》めてから、パンを手に取ってキッチンを出た。  リビングのソファに放り出した鞄《かばん》から、携帯《けいたい》電話を取り出す。アドレス帳から見慣れた電話番号へとかけ、通話ボタンを押した。待ち時間ほぼ零《ぜろ》で、叔母《おば》さんが電話に出た。今日は夕食を友達と食べると伝える。叔母さんは好物のスルメを頬張《ほおば》りながら受け答えしているのか、やたらくちゃくちゃと咀嚼《そしゃく》音をさせながら了解《りょうかい》し、早く帰ってくるようにと告げて電話を切った。  携帯電話を鞄に戻《もど》して、床《ゆか》に尻《しり》を下ろす。  そしてそのまま目を閉じて、御園《みその》マユとの過去を、思い返してみた。  十秒で全《すべ》てが映像化され、観賞を終えた。  最悪だけが生まれた。  用事を済ませてから、和室の襖《ふすま》を開けた。視線を意に介《かけ》さず部屋の中央へ上がり、電灯《でんとう》を点《つ》けた。 「んー、初めまして、かな」  教育番組の司会風な笑顔《えがお》で第一印象の向上を図《はか》ろうとして、無理だと諦《あきら》めた。  照らされた六|畳《じょう》の部屋には、異臭《いしゅう》が漂《ただよ》っていた。鼻を塞《ふさ》ぎたくなるほどの悪臭が粘膜《ねんまく》を刺激《しげき》する。二人が風呂《ふろ》に入っていない為《ため》と、服を洗濯《せんたく》していないこと。そして、隅《すみ》に置かれた簡易《かんい》トイレの中身が、臭《にお》いの主たる原因と判断した。この臭いが漏《も》れないように、襖を閉じる。平静を装《よそお》うのに、労力を相当|割《さ》きそうだ。  兄の方は僕を怯《おび》えた目で見上げ、妹の方は吊《つ》り目を更《さら》に険しくして睨《にら》み付けてきた。共通点は、足と柱に錠《じょう》を課せられ身動きが取れないことだ。その枷《かせ》が付いた足首と柱には、外そうと引っ張ったりしたのか、微細《びさい》な傷とささくれが見受けられた。  二人は息を飲み、口は漢数字の一を描《えが》いている。そんな子供達の前で腰《こし》を下ろし、正座して背筋を伸《の》ばす。初対面の相手には、つい礼儀《れいぎ》を正してしまう。兄の方が、少し面食らっていた。 「池田《いけだ》浩太《こうた》君と、池田|杏子《あんず》ちゃんだね」  名前を呼ぶ際、顔を眺《なが》める。兄の浩太君は、恐怖《きょうふ》を重力として感じているのか、何度もがくがくと首を振《ふ》り、肯定《こうてい》の意を表してくれた。一方で妹の杏子ちゃんは、視線を壁《かべ》へ逸《そ》らし、会話を拒絶《きょぜつ》するような態度だった。まあ、当然だよな。 「僕のことはお兄さんと呼んでくれ。勿論《もちろん》お兄ちゃんでもいいけど」 「……はあ」  口の中でくぐもりながらも、兄の方がようやく声を聞かせてくれた。 「あ、名前は秘密ということで」  自分の地味さにテコ入れを課すべく、謎《なぞ》を演出してみた。二人からの訝《いぶか》しさに満ちた熱い視線は何|喰《く》わぬ顔で無視して、パンを相手の目線に掲《かか》げた。 「お腹《なか》は空いてる?」 「え、あ、は、はいいえ」  どもりながら答えようとする。実に理解し辛《づら》い。見かねたように、杏子ちゃんが壁を向いたまま口を開いた。 「当たり前でしょ。朝から何にも食べてないんだから。早くそれ、よこしなさいよ」  随分《ずいぶん》と尖《とが》った声調だった。それからそのままの状態で、手を伸《の》ばす。その小さな手に、パンを載《の》せた。池の鯉《こい》に食べさせるかのように干切れ、見|崩《くず》れしたパンを更《さら》に杏子《あんず》ちゃんは分解する。中身を検分している様子だけど、別にクリームもチョコも毒物も入ってはいない。 「今日は、この後にも夕食があるけどね」  杏子ちゃんの解剖《かいぼう》の手が止まり、目が丸くなった。 「あの、どういうこと、ですか?」  浩太《こうた》君が尋《たず》ねてきた。表情に期待は薄《うす》く、不安が上乗せされていた。 「君達を攫《さら》ってきたおねえさんが今、ご飯を作ってる。何を作るかは知らないけどね」 「作る? ご飯を? それに毒でも入れてるの? それともゴキブリでも食べさせる気?」  杏子ちゃんが険しい顔で突《つ》っかかってきた。やはり、先程《さきほど》の行いは異物の混入の有無を確認《かくにん》していたらしい。その用心深さには些《いささ》かの好感を覚える。少し苛《いじ》めたくなるぐらいに。  浩太君はそんな妹の態度が僕の機嫌《きげん》を損《そこ》ねないか心配らしく、必死に顔色を窺《うかが》おうとしている。 「毒に、ゴキブリね……。じゃあ杏子ちゃん、」「名前で呼ばないで」 「池田さん、もしどちらかが入っている食事を出されたら、君は食べる?」 「食べるわけないじゃない」 「食べなければ殺すと言われたら?」 「そんなもの食べたら、どっちにしても死ぬじゃない」  違《ちが》うよ、と首を振った。 「食べないと、君のお兄さんが殺されるんだ」  浩太君の肩《かた》が、大げさに取れるほど跳《は》ね上がった。涙目《なみだめ》にもなっている。杏子ちゃんはそんな兄に、軽蔑《けいべつ》するような視線を横目で投射した。 「自分のことは自分で決めればいいけどね、その選択《せんたく》が周囲に与《あた》える影響《えいきょう》はちゃんと考えないといけない。そしてその責任も取らないといけないんだ」  例えば、僕にとっての彼女のこと。  御園《みその》マユに対しての、責任。  杏子ちゃんは押し黙《だま》り、睨《にら》んでいた視線は俯《うつむ》いてしまった。その代わりに、浩太君が僕と杏子ちゃんの顔を交互《こうご》に覗《のぞ》いてから、やがて口を開いた。 「あの、ぼくが食べます、から」 「ん?」 「ぼくが食べますから、その、あんずには、そういうこと、言ったり、しないでください」  激しい吃音《きつおん》混じりながらも、言葉に意志が通っていた。真っ直《す》ぐに僕へ伸《の》びるように。  なんというか、兄貴だった。  驚《おどろ》きながらも、杏子ちゃんは兄の腕《うで》に縋《すが》る。僅《わず》かに瞳《ひとみ》を潤《うる》ませていた。 「あんずを、いじめないでください」 「…………………………」  少ないながらも蓄《たくわ》えられていた良心が自傷|行為《こうい》に走った。もうがりがりと掻《か》きむしった。  子供|恐《おそ》るべし。 「あのさ、僕を人の尊厳と命をふざけた二択《にたく》で弄《もてあそ》ぶクズ野郎《やろう》と思わないでほしいのだけど。あくまで、もし、例えばの問いかけだから。ね、マジにならないでくださいほんと」  平身低頭して謝罪した。 「あ、す、すいません」  浩太《こうた》君もへこへこと頭を下げる。杏子《あんず》ちゃんは当然下げなかった。 「そんなこと聞く方が悪いのよ」  杏子ちゃんが押し殺した声で呟《つぶや》く。聞くより実践《じっせん》する方が悪いと思うけど、とは言わなかった。この会話を続行する気はない。実りがないとは言わないけど、実る前に僕が良心の呵責《かしゃく》で死ぬ。  それから二人は余程飢《よほどう》えていたらしく、杏子ちゃんの両手で検分(僕からすれば損壊《そんかい》)した粉々のパンを目分量で分割し、黙々《もくもく》と咀嚼《そしゃく》し始めた。会話がなくとも、互《たが》いに顔を向け合う食事の風景は、学校以外ではお目にかかったことのない、尊いモノに思えた。  姿勢を崩《くず》し、胡座《あぐら》をかく。膝《ひざ》に肘《ひじ》を突《つ》き、二人を観賞してみた。  兄の池田《いけだ》浩太は小学四年生。垢《あか》色の肌に、線の細い体つき。前髪《まえがみ》が眉間《みけん》にまで掛かるほどの長さで、キタロウみたいになっている。二つ年上の兄ではあるが、随分《ずいぶん》と妹の顔色を気にしている。どうもそれは恐《おそ》れではなく、過保護な気の遣《つか》い方の表れらしい。合格。  妹の池田杏子は小学二年生。この子も、肌の垢が目に付く。肩《かた》に掛かる程度の髪は癖毛《くせげ》なのか、派手に跳《は》ねている。口調は大人びて、負けん気と意地の凝縮《ぎょうしゅく》されたような性格と見受けた。  マユが攫《さら》った二人は、新聞やニュースで見た写真よりやつれて、けれど目の下の隈《くま》は薄《うす》い気がした。 「ひょっと、にゃに?」  パンを一気に口へ詰《つ》め込み、頬《ほお》を膨《ふく》らましながら杏子ちゃんが睨《にら》む。その目線も、リスのような頬と組みあわされば、好感に変わる。 「いやなんというか。妹は和《なご》むねと思っただけ」  杏子ちゃんはパンで膨らんだ頬を朱色《しゅいろ》に染めて、目を逸《そ》らした、なんてことは勿論《もちろん》あり得ない。ただ冷めた視線だけを向けられた。 「べひゅに、あんたにょいみょうとひゃない」 「まあ、そうだけどさ。君は犬を見ると、殺したいって感じないでしょp・」 「ひゃあ? なにしょれ」 「ん、やっぱり君は良い子だねぇ」  したり顔が気に障《さわ》ったらしく、パンを無理矢理飲み込んでから、「キモイ」と辛辣《しんらつ》な評価をぶつけてきた。浩太《こうた》君はむせ込みながら、ぺこぺこと代理で頭を下げる。緊張《きんちょう》感のない誘拐《ゆうかい》犯と、肩《かた》に力が入りすぎな被害《ひがい》者の取り合わせは間抜《まぬ》けの一言に尽《つ》きた。 「さて、お腹《なか》も少しは落ち着いたようだし、一つ真面目《まじめ》な話をしていいかな」 「余計お腹空いた」  反抗《はんこう》的な憎《にく》まれ口を杏子《あんず》ちゃんが挟《はさ》む。「あんず」と浩太君が注意し、やっと口を噤《つぐ》んで聞く姿勢になる。そんな二人の顔を見|渡《わた》してから、話を切り出した。 「一つお願いがあるんだ」  そう前置きして、僕はそのお願いを口述した。 「君達を誘拐《ゆうかい》したのは、僕ってことにしてほしい。あのおねえさんは一切合切《いっさいがっさい》関係ない、存在自体公表しないでほしい。それさえ守ってくれればいい」  そうすれば、近いうちに君達を解放する。  そんな嘘《うそ》をついた。  正直、こんな口約束を守ると考える方がどうかしている。そこまで人を信頼《しんらい》している奴《やつ》は、悪徳商法に騙《だま》されてくれと笑顔《えがお》で肩を叩《たた》きたい。  だから僕はいつか、機を見計らってこの子達を殺すのだろう。  口のない死人とする為《ため》に。  それこそ、巷《ちまた》で噂《うわさ》の殺人鬼《さつじんき》のように。 「あ、あの」  浩太君が、おずおずと挙手する。「はい、池田《いけだ》君」とちょっと気取って発言を促《うなが》した。 「かいほうって、その、ぼくたちをここから出す、ってことですか2」 「そう、だね。出すというか、逃《に》げ出すというか」 「そうですか……えと、どうも……」  なんか、妙《みょう》に消極的だな。まるで、ここから出たくないみたいにも取れる。杏子ちゃんの顔を見ても、兄と顔を見合わせて憂鬱《ゆううつ》な表情になったりしている。まさか、望んで誘拐《ゆうかい》されたわけでもないだろうに。  誘拐は、ある意味殺人より性悪《しょうわる》な犯罪だ。  殺人は本人が死んで終了《しゅうりょう》だけど、誘拐は、解放されてから続いてしまう。  狂《くる》った人生を、続けなければいけない。  修正不可能なのに。  半分以上死路と重なっているのに。  生きなければいけない。  活《い》かされ続けていく。  理解出来なくなった、人の普通《ふつう》ってやつに隷属《れいぞく》しながら。  ……あー、駄目《だめ》だ。払拭《ふっしょく》しないと。 「ところでさー、君達ってどういう経緯《けいい》で誘拐《ゆうかい》されたわけ?」  口から悪意と共に吐《は》き出した言葉は、それと反比例して軽々とした調子だった。 「外で、遊んでてあのおねえさんが出てきて、そのままここに……」  浩太《こうた》君の、歯切れの悪い返答。ちらりと妹を一瞥《いちべつ》する。杏子《あんず》ちゃんはそっぽを向いて、けれど浩太君の左手に、自分の手を重ね合わせていた。僕はそんな兄妹《きょうだい》の対応に「ふうん」と納得《なっとく》した素振《そぶ》りを見せながら、内心では異議ありと人差し指を突《つ》きつけていた。  この殺伐《さつばつ》という字面《じづら》が似合すぎる御時世に、呑気《のんき》にお外で遊んでいた? かなりダウトな発言だ。報道でも夕方に姿を消したとなっていたから、この子達が家屋の外にいたことは確かだ。ただ、この子達の保護者、両親がそれを許すかな、状況《じょうきょう》的に。……うーん。  妙《みょう》に引っかかり、けれど余り気にかけたくはないな、と考えていたら、 「なんでこんな所にいるの?」  爆《は》ぜるような音を立てて勢い良く開いた襖《ふすま》と、冷淡《れいたん》な声。振り向くと、フライパンの柄《え》を片手で支え、まるで教室にいる時のような、落ち着き払《はら》った雰囲気《ふんいき》のマユが直立していた。十五分前の幼児退行が幻覚《げんかく》として霞《かす》みそうなほど、彼女は年相応な十七|歳《さい》に戻《もど》っていた。  不思議そうな表情ながらも部屋に入ろうとして、敷居《しきい》で転《こ》けそうになったので、慌《あわ》てて身体《からだ》を支えた。「ありがと」と乾《かわ》いた声で礼を述べられる。「どういたしまして」と無意味に紳士ぶってから、フライパンの中身を確かめた。 「焼きそばだよ」  自信作なのか、はたまた好物なのか、マユは気持ち笑顔《えがお》でフライパンを差し出す。そこから生じる、香《こう》ばしいソースの匂《にお》いは、部屋の臭《にお》いと混ざって食欲減退を促《うなが》した。 「何か敷物《しきもの》を……」  僕の日本語は通じなかったらしく、マユは畳《たたみ》に直《じか》にフライパンを置いた。焦《こ》げる音と、草を焼く臭いがした。もはや異臭《いしゅう》祭りと呼ぶに相応《ふさわ》しい状態になってきた。 「わたし達は台所で食べよ」  マユが僕の服の袖《そで》を引っ張る。僕はそれをやんわりと断った。 「ここで食べよう」 「なんで?」 「なんでって、この子達も食べる為《ため》に作ったんだろ?」  マユの唇《くちびる》が更《さら》に意見を返そうと開きかける。けれど、小さい深呼吸に切り替《か》わった。そして不満を多量に散りばめた態度と声で、「分かった」と腰《こし》を下ろした。  マユから竹の箸《はし》を受け取る。視線で促《うなが》すと、放《ほう》り投げるように二人にも割り箸を渡《わた》した。二人は、箸を受け取る時に目を何度も瞬《まばた》かせていた。けれどそれも数瞬《すうしゅん》。食欲に忠実な兄妹《きょうだい》は、目線で是非《ぜひ》を問いかけ、僕の了解《りょうかい》を得てから箸をフライパンへ伸《の》ばした。 「熱いから火傷《やけど》しないように……」  二人とも、話など聞く暇《ひま》もなく、フライパンに顔を突《つ》っ込みながら果敢《かかん》にソバを啜《すす》っていた。  毒入りであろうと躊躇《ためら》わず喰《く》らう姿勢である。僕が箸《はし》を入れる余裕《よゆう》もない。 「おいしい!」 「うん、おいしいね!」  杏子《あんず》ちゃんまで素直《すなお》に賛辞を述べながら、キャベツの芯《しん》まで噛《か》み砕《くだ》いて貧欲《どんよく》に胃腸に詰《つ》め込んでいく。作り手|冥利《みょうり》に尽《つ》きる、と大半の方は嬉《うれ》しがるけど、マユは普通《ふつう》じゃない。あからさまに苛立《いらだ》ちながら、焼きそばが二人の口へ吸い込むように消えていく様を見ている、歯|軋《ぎし》りをして、腕《うで》の皮膚《ひふ》に爪《つめ》を立てる。マユが今にも怒鳴《どな》り散らしそうだと僕は危惧《きぐ》していたけど、そんな事態には陥《おちい》らなかった。マユはそこまで大人しい子じゃなかった。  マユがゆったりとした動作で箸を掲《かか》げる。そして、その次の行動に、僕は視界をぐらつかせた。  振《ふ》り上げた箸の先端《せんたん》を、杏子ちゃんの頭に、振り下ろそうと、 「バカ!」  掛《か》け値《ね》なく罵倒《ばとう》しながら、箸を遮《さえぎ》るために咄嵯《とっさ》に右手を伸《の》ばした。まーちゃんのカラフルな箸が手加減なく、中指の付け根辺りに突き刺《さ》さり、皮を突き抜《ぬ》けた。 「っつう……エイリアンが手の中から……って感じかな」 「……みーくん?」  斜《なな》めに突き刺さった箸に対し、マユが首を傾《かし》げる。浩太《こうた》君達も、食べる手を休めずに僕の手を見ていた。ずぶといな、この子達。食欲強すぎ。  手の平を箸が貫《つらぬ》き、真っ赤に燃える僕の血潮が溢《あふ》れ出した頃《ころ》にようやく、マユが反応を見せた。 「包帯とか持ってくるから」  軽い調子で立ち上がった。罪悪感|零《ぜろ》であり、台詞《せりふ》が軽い軽い。 「包帯は別にいいや、絆創膏《ばんそうこう》で……」 「駄目《だめ》。ばい菌とか入ったら肌《はだ》がぼこぼこになるから」  どんな状態だぼこぼこ。肉がぼこぼこになるのか肌がぼこぼこになるのかで、恐怖《きょうふ》の度合いが違《ちが》いすぎるのだが。 「後、みーくん専用のご飯を作るから待ってて」  食事に専用って付けると、何となく種族からして異なる響《ひび》きがあるので、心は躍《おど》らない。それはいいとして、僕は部屋から出ようとするマユを引き留めた。 「ご飯はいいよ、二度手聞になるし」 「手間なんかかけないよ」  それはそれで困る。 「今日はもういいんだって。僕は後で、ほら、えーと、まーちゃんをた、食べるから」  言い終え、羞恥《しゅうち》心が臨界《りんかい》点に到達《とうたつ》した。ここまで言わなきゃ良かったと後悔《こうかい》したことがかつてあっただろうか。顔が熱すぎる。子供達の視線が痛い。傷より耐《た》え難《がた》い。大体こんな死語みたいな言葉で相手が納得《なっとく》するものか。そう思って、マユの反応を窺《うかが》ったら、神妙《しんみょう》な表情になっていた。それから僕の第六、第七の指候補が突《つ》き刺《さ》さっている右手を引っ張り、和室の外、リビングまで引きずり出してきた。襖《ふすま》を閉じ、そして、唐突《とうとつ》に躊躇《ちゅうちょ》なく破顔一笑した。 「ほんと?」 「何がかね?」  何故《なぜ》か紳士《しんし》口調で対応してしまった。 「ねぇねぇ、まーちゃんを食べるの? 今日ですか夜ですかやほー!」  超《ちょう》が頭に付くほど効果的だった。諸手《もろて》を上げて喜んでいる。乙女《おとめ》の脳髄《のうずい》には濃硫酸《のうりゅうさん》でも流れているのだろうか。 「えーとですね、その件については後日改めて……と、取り敢《あ》えず、絆創膏《ばんそうこう》持ってきて」  手の平に建立《こんりゅう》している箸《はし》を見せながらごまかしをかける。効果があったか定かではないけど、にこにこと笑顔《えがお》でマユは頷《うなず》き、待ちわびたように駆《か》け出していった。  それを見届けてから、和室に引き返す。先程《さきほど》と同位置に腰《こし》を下ろし、それから、いつまでも生やしたままにしておけないそれを、左手で掴《つか》む。 「おおっ、骨の近くまで、いた、いだだだ、ずるってぬけた、ずるって。鳥肌《とりはだ》立ってるよ」  一人|騒《さわ》ぎながら、箸を引《ひ》っこ抜《ぬ》いた。血の珠《たま》が浮かび上がり、次々に手の平を赤色の線が染め上げていく。舌で舐《な》め取り、畳《たたみ》を汚《よご》すことを防いでいたら、視線を感じたので横目で見た。  浩太《こうた》君が僕に視線を向けていたけど、それより焼きそばが底をつきかけていたことにまず驚《おどろ》いた。 「あの……ありがとう、ございます」 「何が? 食事を作ったのはあのおねえさんだから、お礼ならそっちによろしく」  違《ちが》います、とどもりながら首を振《ふ》って、浩太君が言った。 「あんずをかばってくれたから」  浩太君は照れくさそうな笑顔で、ぺこりと頭を下げた。  懐《なつ》かれたか、多少は味方と思われたかと勘繰《かんぐ》らせる態度だった。  一方の杏子《あんず》ちゃんは、見なかったふりをして残ったそばを咀嚼《そしゃく》している。  僕はそんな二人に、気にしない気にしない、と笑い話のように締《し》めくくった。  ……これを笑い話で済ましてしまうのが、僕とマユの関係なんだろう。  どんな常用漢字を用いて表せばいいのやら、全く。  それから傷の治療《ちりょう》を終えてすぐ、逃《に》げるようにしてマユの家から出た。涙目《なみだめ》になったマユを振《ふ》り切るのは心苦しかったけど、マユの都合だけに合わせる余裕《よゆう》はない。半分|嘘《うそ》だけど。  マンションを出て、昼と夜の温度差に驚《おどろ》いた。風が吹《ふ》くと僅《わず》かに肌《はだ》寒い。 「……しかし、濃《こ》い一日だった」  塩酸の如《ごと》き時間だった。  包帯を大げさに巻かれた手の平を見る。『絆創膏《ばんそうこう》なかったー』と朗《ほが》らかに報告し、手順も巻き方も無知ながら、巻きつけてくれる量だけは一級品だった。それを、全《すべ》て外した。既《すで》に、薬品の臭《にお》いが少し染みついていた。今日は、臭いの厄日《やくび》か。 「誘拐《ゆうかい》に、また関《かか》わるとは思わなかったな……」  しかも今度は共犯者の立場として。歳月《さいげつ》が立場を逆転させたなんてのは、幼馴染《おさななじ》みのライバル同士だけで充分《じゅうぶん》だっていうのに。  それに、誘拐された兄妹《きょうだい》。あの子達を見て、交流を得て、何か、違和《いわ》感があったような気がする。矛盾《むじゅん》、というか。普通《ふつう》に事を始めすぎて、薄皮《うすかわ》一枚の差異を感じたけど、どうにもそれが具体化することはなかった。 「……あ」  それとは別件に一つ、しょうもないことを尋《たず》ね忘れていた。  その場で振り向く。マンションの全景が、各々《おのおの》の部屋から漏《も》れる光で浮かび上がっていた。まるで、影絵《かげえ》のように、周囲の闇《やみ》と共存してそびえ立っている。  明日にでも聞けばいいか。  そこまで大したことでもなし、わざわざ出|戻《もど》りまでして問う気にはならない。それに今部屋に戻ったら、そのまま泊《と》まっていく流れに踏《ふ》み込んでしまいそうだ。そんなことをしたら叔母《おば》さんが石灯籠《いしどうろう》で殴《なぐ》ってきそうだ。  だから明日、覚えていれば質問してみよう。  何で、あの子達を誘拐したんですか。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 八人目『ムイシキサツジン』 [#ここで字下げ終わり]  鶏《とり》の皮が好きだ。鮭《しゃけ》の皮も好きだし、鯛《たい》の頬《ほね》の肉も好きだ。けれど、それだけを単体で評価し、残りを下とするのは、些《いささ》か杓子定規《しゃくしじょうぎ》に過ぎるというものだ。それは例《たと》えるなら、耳だけを切り落として残った人間より優としてしまうようなものだ。それは愚《おろ》かと評価せざるを得ない。残った人間には目もあれば口もあり、何より四肢《しし》が健在だ。それらの真価も味わい尽《つ》くさずに破棄《はき》することを、資源の無駄遣《むだづか》いと評されても甘んじて受け入れるしかないと思う。まあカニバリズムの嗜好《しこう》はないし、人体を用いた工芸造りにも興味は薄《うす》い。よってこの議論についてはここで中断し、先行きについての建設的意見を自身の中で構築していきたいと思う。あ、死んだ。取り敢《あ》えず砂上の楼閣《ろうかく》とならないよう、土台を多角的な意見で固めていくのが定石《じょうせき》であると捉《とら》えている僕としては、本音を言えば複数の人間に意見を尋《たず》ねてみたいのだ。特に、同類。自分と同じ癖《くせ》を持っている人間がいい。立ち位置を同じとしながら、違《ちが》うモノを見|据《す》えている同族の人間と、喫茶店《きっさてん》で向き合って話をしてみたい。自問自答の限界を感じてからの、僕の切実な願いだった。ただ一つ懸念《けねん》すべきは、そんな奴《やつ》と出会った場合、本当に話し合いだけで事が済むのか、ということだ。僕は正直血の気が多い方であることは否《いな》めなく、特に気に入った奴に対しては、ついくだけた態度を取って不快にしてしまうことがある。口論から喧嘩《けんか》に発展することなど、何一つ珍《めずら》しいことではない故《ゆえ》に、僕は二の足を踏《ふ》む。怖《こわ》いのだ、鏡を見ることが。そして鏡に映る者に拳《こぶし》を振《ふ》るうことが。……幸いなのか、不幸の二乗なのか、僕は現在、同類との邂逅《かいこう》を果たせていない。過去を振り返っても、唯《ただ》一人、それも数秒に過ぎない交差を成せただけだ。どうしてこう、僕の同類は絶滅危惧種《ぜつめつきぐしゅ》のように姿を隠《かく》そうとするのか。僕に似た奴なんて幾《いく》らでもいるはずなのに。僕は深夜のコンビニが好きだし、音楽は綺麗《きれい》な女性が歌っているなら何でも聴《き》く。後はムイシキに近い状態で生き物を殺す癖と隠れんぼが上手《うま》いという条件を満たしていれば、完全に僕の仲間だ。まあ、類似を求めている以上、歌の趣味《しゅみ》ぐらいは異であってもいい。男の歌が好きでもこの際|歓迎《かんげい》しよう。それぐらい、仲間探しは困難を極《きわ》めている。今ならどれだけ胡散臭《うさんくさ》いメールや無料を騙《かた》る有料サイトであっても、同類を紹介《しょうかい》してくれるなら心の拒否《きょひ》と裏腹に足が独《ひと》りでに歩み出してしまうぐらいだ。今日も、仲間探しの旅を兼《か》ねてコンビニへ向かったら、敵が草原の獣《けもの》のように身を潜《ひそ》めて緋徊《はいかい》していた。社会人になる頃《ころ》には前途《ぜんと》洋々、順風|満帆《まんぱん》、寄らば大樹《たいじゅ》の陰《かげ》と生きたいモノだ、人生を。やれやれ。 [#改丁] 二章 『両親と診療』 [#ここから3字下げ] 「みんな、どうしてるかな」 「みんなって?」 「ながせさんとかわきたさんとか」 「学校のともだち?」 「うん」 「じゃあ、学校に行ってふつうにしてると思うよ」 「わたしたちのことしんぱいしてるかな?」 「きっとしてるよ」  そういいながら、ぼくは心のどこかで多分してないと思っていた。 「おとうさんと、おかあさんは?」 「……きっと、してるよ」  そこでぼくらの話はとまった。  その後、今の話をわすれるようにねむった。 [#ここで字下げ終わり]  朝日が眩《まぶ》しい午前七時、早朝。登校には早すぎる時間帯に既《すで》に学校前を通過し、更《さら》に歩を進めてマユのマンションを訪《おとず》れていた。今日から同棲《どうせい》する為《ため》である。その期待感に、十二年間待ったグームの発売日を迎《むか》えた、かつて子供だった大人並みに早起きしてしまった。まあ嘘《うそ》だけど。  ただ単に、昼夜逆転の生活をしている看護師の叔母《おば》と顔を合わせたくなかっただけだ。昨日、帰着してから大喧嘩《おおげんか》と相成《あいな》った。不純な交遊とか以前に、貴様に生きる資格はないと言わんばかりに基本的人権の迫害《はくがい》を互《たが》いに罵《ののし》りと共にぶつけ合った。骨肉の争いに発展する寸前で、まだ物分かりの良い医者の叔父《おじ》が折れて、月に一度は顔見せに来ることを条件に許可した。叔母は最後まで反対していた。少々、過保護なのだ。けど少なくとも僕より悪人ではない。 「ちょっと早すぎるかな……」  エレベーターに乗って三階へ行き、マユの部屋の前で立ち止まって呟《つぶや》く。マユはよく眠《ねむ》る子だ。学校でも机に突《つ》っ伏《ぷ》して寝《ね》ているところと、二時間目から出席する姿しか記憶《きおく》にない。 「迎《むか》えに行くとは約束したけど、起きられるのかな……」  駄目《だめ》もとでチャイムを押した。出ないなら外で待ドアが開いて僕にぶち当たった。 「っつ、っつ!」  感|極《きわ》まって、言葉にならない想《おも》いが赤い鼻汁《はなじる》として溢《あふ》れてきた。 「やほー、みーくん!」  鼻を押さえる僕と、無邪気《むじゃき》にはしゃいで挨拶《あいさつ》するマユ。 「やほー?」  パジャマ姿のマユが、笑顔《えがお》のまま首を傾《かし》げる。それから、僕の指の隙間《すきき》から流れる鼻血に対して、パジャマの袖《そで》でぐいぐいと拭《ふ》いてきた。 「いいって、汚《よご》れちゃうから」 「へーきへーき。みーくんのは綺麗《きれい》だから」  青と白のストライプのパジャマが、一部分だけ斑《まだら》のように三色目を付着させる。それを見て、マユは恍惚《こうこつ》のような、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》であどけなく笑う。  背筋を爬虫《はちゅう》類が横断するような、鳥肌《とりはだ》と冷や汗《あせ》の感覚に頬《ほお》を引きつらせながら、僕は確認《かくにん》した。 「……いつから玄関《げんかん》に立ってたの?」 「昨日から」 「…………キノウ?」 「いえすたでー」 「……昨日のいつから」 「みーくんが逃《に》げて、お風呂《ふろ》入ってから」  僕がこの部屋を出たのは、午後七時前だ。 「扉《とびら》の前で、待ってたの?」 「うん」 「何して」 「寝てた」 「…………………………」  えーと。  これを健気《けなげ》な娘《むすめ》やと感涙《かんるい》するか、こえーよーと廊下《ろうか》の隅《すみ》で震《ふる》えるかで、関係が決まるんじゃないかな。そして考えるまでもなく、捻《ひね》くれ者はどちらも選ばなかった。 「もっと早く来ればよかったね、ごめん」  無難な意見で日和見《ひよりみ》をしておく。マユは気にすんねーと気さくな態度で応じ、そのまま飛びかかるように抱《だ》きついてきた。 「みいく〜ん」  甘えた声と共に、胸元に柔《やわ》らかい頬《ほお》を寄せてくる。  ……ん? 確かこの、甘えたがりな同棲《どうせい》相手に尋《たず》ねることがあったような……。 「んー? なんか、石鹸《せっけん》の香《かお》りがするー」  マユからは甘い匂《にお》いがする。その匂いの所為《せい》で、尋《たず》ね事を完全に忘却《ぼうきゃく》した。 「朝風呂が好きなのだ」  入ったのは今日が初めてだけど。昨日は風呂に入る暇《ひま》もなかったから。  マユを付属させたまま、部屋に上がる、僕が一緒《いっしょ》に住むかどうか、マユは確認《かくにん》してこなかった。聞くまでもないということなんだろう。そして言うほどのことでもないから、それは正しい。  昨日と変わらない居間に入り、学生|鞄《かばん》と、着替《きが》えを詰《つ》めたスポーツバッグを床《ゆか》に置く。和室に目をやると、襖《ふすま》は堅牢《けんろう》に閉じられていた。よくあの部屋で一日中過ごして気が狂《くる》わないものだと他人事として感心する。 「朝ご飯は?」と、僕の腕《うで》にしがみつきながらマユが質問してきた。 「食べてないけど」 「そうじゃなくて、パンかご飯、どっちがいいかなということ」  ああ、食べるのは決定|事項《じこう》なのか。食べないと昨日みたいに箸《はし》で食べられちゃうぜ、などと謎《なぞ》の言葉を夢想している自分はやはり狂《くる》っていると思いました、まる。 「じゃ、パンで。洋室だしね」  何の関連性もない意見を告げた。マユは「分かった」と了解《りょうかい》しながらも、僕に引っ付いて具体的な行動は見せない。満足そうな表情からして、抱《だ》き枕《まくら》としては合格なのだろう。一緒《いっしょ》に寝《ね》転ぶようにソファへ座り、三十二インチのテレビの電源を入れた。 「朝にテレビ見るなんて初めて」  珍《めずら》しいとか久しぶりですらないのか。  画面は、見慣れた景色《けしき》を映し出していた。僕らの住んでいる街である。連続殺人事件というアリガチなテロップが、さも大仰《おおぎょう》そうに表れた。 「昨日の夜も人が死んじゃったんだって」 「物騒《ぶっそう》だねえ、でも人って毎日死んでるよねえ、こんな大々的に言わなくてもいいのにねえ」  軽くとぼけておいた。昨日の時点で知っていたことだ。  殺害されたのは、巡回《じゅんかい》していた自治会の会長。見回りを終えて引き継《つ》ぎを行う際、僅《わず》か五分程度の間一人でいたところを殺害された。死因はオーソドックスに、刃物《はもの》による刺殺《しさつ》。側頭部に物の見事に穴が空いていたらしい。犯行時刻は午後八時|頃《ごろ》、場所は小学校の近所だった。犯人の目撃《もくげき》談は皆無《かいむ》。そろそろ本当に、殺害犯が存在する人殺《じんさつ》事件なのかと疑問視する住民まで出てきそうだ。犯行の元凶《げんきょう》は、オカルトや超常現象の類《たぐい》ではないかと。それぐらい、人死にと縁《えん》のない街だったのに。半年前までは。 「ほんと、怖《こわ》いなあ……マユ?」  薄《うす》っぺらい僕の感想に、マユの反応はなかった。ただ、先刻までの笑顔《えがお》を破棄《はき》して、光も濁《にご》りもない瞳《ひとみ》で、ブラウン管の映し出す光景を眺《なが》めていた。 「……久しぶり」  独《ひと》り言《ごと》として呟《つぶや》く。同時に、懐古《かいこ》に浸《ひた》る。それは蛆虫《うじむし》の群れに素足《すあし》を突《つ》っ込む事態を想像するよりも、嫌悪《けんお》と悪寒《おかん》に襲《おそ》われるおぞましいものだった。 「ねえ」  突然《とつぜん》、マユが僕を見上げた、無機質な瞳《ひとみ》が、僕の眼《め》を覗《のぞ》き込んでくる。 「あれをやったの、みーくん?」  何気ない口調の質問だった。根拠《こんきょ》も脈絡《みゃくらく》もないのに、語尾《ごび》の疑問が弱い。 「いいや」と、僕は嘘《うそ》をついた。 「まーちゃん、人殺しが大|嫌《きら》いなんだろ?」 「うん。わたし、世界で一番嫌い」  また、マユの顔が笑いを形作る。そして、覆《おお》い被《かぶ》さるように僕の膝《ひざ》の上に座る。互《たが》いの頬《ほお》を合わせ、すり寄せてきた。 「そしてみーくんを世界で一番××してます」 「……どもっす」  無論、この程度で照れるはずもない。 「お、お? みーくんのほっぺが熱くなってきた。それにとりはだぶつぶつー」 「…………………………」  嘘《うそ》だけど。 「ご、ご飯食べよう。麦を摂取《せっしゅ》したい気分なんだよ」  ヘタレと表されそうなほど狼狽《ろうばい》していた。マユは勝ち誇《ほこ》る余裕《よゆう》の笑《え》みで、「はいはい」とかあやすように言ってきた。子供に子供|扱《あつか》いされるとはなんたる屈辱《くつじょく》。大好きとか身体《からだ》の接触《せっしょく》は平気なのに、ラブの和訳が露骨《ろこつ》に弱点すぎる。無理して仏頂面《ぶっちょうづら》になり、恥《はじ》の上塗《うわぬ》りを避《さ》けた。  マユが僕から離《にな》れ、キッチンへ歩き出す。今日は落ち着いたのか、慌《あわ》ただしく走ることはしない。ふらふらと、夢遊病のような足取りのマユの背中に、僕は問いかける。 「もしもの話……僕が今の犯入だったらどうする?」  マユは振《ふ》り向き、そのままねじ切るような勢いで首を傾《かし》げた。 「どうするって?」 「いやほら、警察に突《つ》き出すとか、怖《こわ》いキモイ変態とか、お前が死ねバーカとか……」  自分の発想の貧困さに呆《あき》れた。ただの悪口じゃねえか。しかも小学生以下。 「うーん……わかんね」  マユは方言的な言い回しで反応し、首を更《さら》に捻《ひね》る。そのままぺたぺた歩いていってしまった。 「例えばみーくんは、今わたしが死んだらどうする?」  キッチンから声が届いた。大した声量でもないのに、明確に鼓膜《こまく》を揺《ゆ》らす。 「そういうことは絶対に考えないから分からない」 「うん! とゆーことなのだ!」  なるほど、そういうことか!  言葉の意味は分からないけど、漲《みなぎ》るマユの自信に感化されて理解することにした。別に他意があった質問でもないし、これでいいのだ。  それから退屈になる前に、和室の襖《ふすま》を控《ひか》えめに開いた。暗室となっていた室内から、やはり万人の忌《い》み嫌《きら》う臭《にお》いが漂《ただよ》ってくる。鼻先を手で覆《おお》い、鼻血が知ら阻間に止まっていたことに気付いた。部屋に入る。  二人は、部屋の隅《すみ》に寄り添《そ》って横になっていた。浩太《こうた》君が杏子《あんず》ちゃんを庇《かば》うように、抱擁《ほうよう》しながら眠《ねむ》っている。杏子ちゃんも、日溜《ひだ》まりの猫《ねこ》のように丸くなっていた。 「……へぇ」  微笑《はほえ》ましいとは思った。けど顔の筋肉は微動《びどう》だにしなかった。特定の事柄《ことがら》でないと、どうにも弛緩《しかん》してくれない。勿論《もちろん》それは、楽しいことでしか笑えないということだ。嘘《うそ》だけど。  一度出て、まだ入ったことのない、恐《おそ》らくマユの寝室《しんしつ》に向かう。廊下《ろうか》を越《こ》えてその扉《とびら》を開けると、今度は鼻ではなくて目を塞《ふさ》ぎたくなる惨状《さんじょう》が広がっていた。教科書は床《ゆか》に平積みで、べッドのシーツは丸まって隅に放置。机上《きじょう》にはファンシーでファンキーな小物類が山積みにしてあり、機能を果たせていない。ただマユは一切《いっさい》、書物を読まないため、雑誌《ざっし》や本が散らかっていることはなく、本棚《ほんだな》もない。  嘆息《たんそく》しながら、教科書を飛び越《こ》えてクローゼットを開く。中の服も、皺《しわ》になることを厭《いと》わず、乱雑に仕舞《しま》ってあった。マユの私服を掻《か》き分けて粗末《そまつ》な毛布を入手し、薄く積もった埃《ほこり》を払《はら》う。それから、毛布を小脇《こわき》に抱《かか》えて部屋を退出した。 「居間が散らかってないのは、使ってないってことか……」  リビングなのに生活感がない、という実にーだらない洒落《しゃれ》に呆《あき》れながら、和室へ舞《ま》い戻《もど》った。毛布を広げ、二人の上に被《かぶ》せようとすると、杏子《あんず》ちゃんの狐目《きつねめ》が反応した。 「……べつに、いらないわよ」  夢現《ゆめうつつ》の杏子ちゃんが半目で、僕を見上げる。 「ゆーかいはんのほどこしなんか、いらない……」  施《ほどこ》しとは、難しい言葉をご存じで。  昨日の食事とは異なり、生理的欲求に訴《うった》えかけていない為《ため》か拒絶《きょぜつ》の意志を見せる。けど。 「残念だけど今は誘拐《ゆうかい》犯しか施ししてくれないから、素直《すなお》に受け取っておくといいよ」  毛布を被せる。顔が半分|隠《かく》れた杏子ちゃんが、毛布越しのくぐもった声で「いらないって言ってるじゃない」と気怠《けだる》そうに抗議《こうぎ》してきた。 「君の意見を押し通した結果、お兄さんが風邪《かぜ》をひくかもしれない。それでもいい?」  杏子ちゃんは押し黙《だま》り、瞳《ひとみ》を縦横に彷徨《さまよ》わせ、最後は毛布に潜《もぐ》り込んでしまった。消極的な肯定《こうてい》の態度と受け取り、そのまま部屋を後にしようとした。 「ありがと……」  虫の羽音よりも儚《はかな》い声だった。本人的に、聞く者を予定していない独《ひと》り言《ごと》だったのかも知れない。けど、田舎《いなか》の早朝が演出する静寂《せいじゃく》の中では、喋《しゃべ》らないぐらいで丁度《ちょうど》良いと思う。 「……昨日のことだから、こーたに言えって言われたから……」  言い訳っぽく、後付けをした。「どういたしまして」と口の中で呟《つぶや》き、部屋を出た。  偽善《ぎぜん》的な振《ふ》る舞《ま》いによる充足《じゅうそく》感を、今更《いまさら》のように思い出した。  朝食を『はいあーん』して『お返しにあーん』して食べさせ合って、一通りバカップルしてから部屋を出ると同時に、マユは幼稚《ようち》さを隠蔽《いんぺい》した。無口、無表情を昨日までと同様に貫《つらぬ》き、僕の隣《となり》を冷めた態度で歩く。ホテルから出た不倫《ふりん》カップルってこんな感じなのかなあと思いながら、それがマユの、世界に対する処世術なんだろうと納得《なっとく》し、僕もまた無言の登校に努めた。ただ、階段の昇降《しょうこう》の際には手すり代わりとして僕の手を貸した。  そうして学校の教室に到着《とうちゃく》すると、マユは一直線に自席に着席し、鞄《かばん》を机の脇《わき》に引っ掛《か》ける。そして上半身を机に突《つ》っ伏《ぷ》した。真っ正面から机とキスをする体勢。あの寝《ね》方では端麗《たんれい》なマユの容姿が勿体《もったい》ないとバカップルの片割れは思った。  声をかける者は、一人としていない。放課後までマユの眠《ねむ》りが妨《さまた》げられることはない。担任の上沼《かみぬま》先生を筆頭として、当校の教師|陣《じん》は事なかれ主義と見て見ぬふりを駆使《くし》する日和見《ひよりみ》思想に傾倒《けいとう》しているので、マユの授業態度に対しても見なかったことにして教壇《きょうだん》に上がる。  昼休みに起こした方が良いんだろうか。下校時は一緒《いっしょ》に教室出ていいのかな。離《はな》れた席で頬杖《ほおづえ》を突《つ》き、Cの字みたいな姿勢で睡眠《すいみん》中のマユを眺《なが》めながら、僕はあれこれと気を揉《も》んで結局、教師に倣《なら》って日和見することにした。  マユは終日、身じろぎ一つせず眠《ねむ》りこけていた。  そして別に特筆することもなく放課後を迎《むか》えた。  喧騒《けんそう》の中、配布された二種類のプリントの見出しを確認《かくにん》する。一枚は生徒会便りで、もう一枚は修学旅行についての記述だった。  生徒会便りには、本校|屈指《くっし》のハートが病気の人達が運営する生徒会からの便りが書かれている。そのまんまである。その内容は、最近日本を震憾《しんかん》させている殺人事件についての注意書きが一行、『危険な物を持っている人に出くわしたら注意しましょう』という、君達の脳味噌《のうみそ》が危険物だと説教したくなる記載《きさい》がされているだけだった。余白は全て、生徒会|執行《しっこう》委員の思想、流儀《りゅうぎ》、武勇伝が各々《おのおの》に配分された欄《らん》(階級によって差がある)に限界まで記されている、つまり『俺様コラム』が目白押しだった。そんな集団であるから、もし僕が謎《なぞ》の転校生であってもこいつらとは喧嘩《けんか》したくない。紙飛行機にしてゴミ箱に投擲《とうてき》した。ボッシュー卜。  もう一枚の修学旅行については、積み立て金から下ろした金額や、行き先の電話番号など、保護者向けの内容だった。それには一通り目を通してから、折り畳《たた》んで仕舞《しま》った。  今から約三週間後、僕らは修学旅行の日程が組まれている。行き先は九州だ。三泊《ぱく》四日の旅行で、北九州を巡《めぐ》る予定になっていることを、一ヶ月ほど前に上沼先生が投げやりに説明していた。それを聞いて、生徒会長の菅原道真《すがわらみちざね》は太宰府天満宮《だざいみてんまんぐう》でどれぐらいからかわれるんだろうなあとか僕は考えていた。  さて、普段《ふだん》は放課後には自発的に復活するマユだけど、今日は蘇生《そせい》の兆《きざ》しがない。若干《じゃっかん》躊躇《ためら》いと迷いが生じる。けど一人で帰った場合、後々に待ち受けると予測される報復|行為《こうい》と天秤《てんびん》にかけて軽い方に従った。  教室の後ろ側から目立たないようにマユの席に向かう。そして肩《かた》を軽く揺《ゆ》すった。こんな行為に及《およ》ぶのは初回なので、周囲の注目が幾《いく》らかは集まってしまう。  マユはうゆうゆと何か口ごもりながら、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》で顔を上げる。そして涎《よだれ》を啜《すす》りながら、僕の存在を認識《にんしき》した。 「……みーくん?」 「うん、かえろ、う?」「とあー」  気の抜《ぬ》けるかけ声をあげ、マユが飛びかかってきた。マユを身体《からだ》全体で何とか支えて、マユと僕がちゅーをした。  とてもびっくりしました、感嘆符《かんたんふ》。 「…………………………」  教室という空間から音が離脱《りだつ》した。音は、自身の内にだけ木霊《こだま》する。筋肉の収縮、骨の軋《きし》み、関節の擦《こす》れ。心臓の鼓動《こどう》。そしてマユの舌が僕の口内を這《は》いずり、唾液《だえき》をかき集めるように蠢《うごめ》く音。舌の裏側や歯の裏まで舐《な》め尽《つ》くして、集まった唾液を、卑猥《ひわい》な音を立てて吸い込む。そこらあたりで、目が覚めたらしい。マユがパッと迅速《じんそく》に飛び退《の》く。 「……間違《まちが》えた」  マユが口端《くちはし》から垂《た》れた唾液を指で掬《すく》う。無表情のまま、僕を見上げた。 「…………新しい立場におはようみたいな…………」  級友達との間に、いかんともし難《がた》い壁《かべ》を建設してしまった気がする。何だよ、駅前でもこんなバカップル共は散見されるじゃないか。声高らかにそう主張しようかと思ったけれど、溝《みぞ》まで掘《ほ》られそうだったので胸三寸に留《とど》めた。嘘《うそ》だけど。  マユは機敏《きびん》な動作でプリントの中心を無造作《むぞうさ》に掴《つか》み、一瞥《いちべつ》もせずに鞄《かばん》に放《ほう》り込んだ。そして即座《そくざ》に席を立つ。もはやここは僕らの居場所ではない。元よりこんな空間を居場所にしたくはなかったけど、相手からも拒絶《きょぜつ》される立場になった。もっとも、誘拐《ゆうかい》事件を知る地元生徒だらけの高校にいて友情などという贅沢《ぜいたく》なものを望みはしない。  マユと連れ立って廊下《ろうか》に出た。マユは教室での失敗に対しても、特別の反応は見せない。何事もなかったかのように落ち着き払《はら》い、服装の乱れを正している、  しかし、マユが僕にしか幼稚《ようち》な部分を見せたがらないということは、今までの態度で理解できた。特別|枠《わく》な自分。嬉《うれ》しいかと問われれば、一応|是《ぜ》で。  それはそれとしてマユの鞄。部屋の惨状《さんじょう》から連想し、廊下に出てから中身を見せてもらうことにした。 「いいけど?」と渡《わた》された鞄はフェザー級だった。取り敢《あ》えず開けてみた。鞄の底が変色したプリントの山で形成されている。教科書とノートは神隠《かみかく》しにあったのか見受けられない。というか、寝室《しんしつ》に積みっぱなしだったよな。  底に手を突《つ》っ込み、プリントを全《すべ》て回収する。一年の頃《ころ》から溜《た》め込んでいたのか、入学式の時に配布された用紙もある。丸めて捨てることにした。 「ウェイト」  教室から声がかかったので振《ふ》り向く。金子《ゆねこ》が扉《とびら》にもたれて立っていた。 「何だよクラス委員」  僕の邪険《じゃけん》を含《ふく》む対応にも曖昧《あいまい》に笑って、金子が近寄ってくる。額を指で掻《か》いたり、腰《こし》に手を当てたりと忙《いそが》しい男だ。じゃあ僕らに構うなよ、と勝手に思った。 「いや、おめーじゃなくて御園《みその》さんに」「なんですか?」  名前を呼ばれ、瞬間《しゅんかん》的にマユが反応する。昨日ほど敵対的ではないけど、その分冷ややかな印象が際立っている。 「いやほら、昨日聞こうと思ってたんだけどね。ウチのガッコのいい上こなんかない?」  マユは一瞬《いっしゅん》、流し目で僕を見てから、「別にないです」とだけ回答した。 「あー……ないか。うん、そっか」  ぶつ切りの、もはや会話といえない空疎《くうそ》な言葉の行き来に、金子《かねこ》は情けなく顔を崩《くず》すしかない。垂《た》れ目の視線がマユを透過《とうか》し、突《つ》っ立って事の成り行きを傍観《ぼうかん》している僕に届く。  金子から露骨《ろこつ》に送信されてくる救援《きゅうえん》信号。それにくわえて、さっきのあれ何よ? と僕を問いつめたい下世話な関心が見え隠《かく》れしている。よって、僕もあからさまに気付かないふりをした。じゃあねで済むのに、何故《なぜ》言えないのか。 「あー、あー、特になしってのは困るんだよね、統計みたいなの取ってるからさ」「自由な校風です。風光明媚《ふうこうめいび》です。施設《しせつ》が充実《じゅうじつ》してます。これでいいですか」 「……うん、まあ、いいかな」  聞くんじゃなかった、と苦渋《くじゅう》しているのが伝わってくる金子の表情。けど「後、もう一個だけ聞くとさ」と前置きして、 「君ら、えーと付き合ったりしてたの?」  それが本命の質問だったのか、言い切った時は金子も微妙《びみょう》に達成感を覚えた表情になる。けどマユの対応は、徹底《てってい》的に淡泊《たんぱく》だった。 「それに答えて、何の参考になるんですか?」 「……あー」と、限界が訪《おとず》れようとしている金子に、 「お前ね、女|口説《くど》いてる暇《ひま》があったら、汗《あせ》の塩を小手《こて》に吹《ふ》き出させるぐらい竹刀振《しないふ》れや」  隣《となり》の教室から出てきた生徒が、揶揄《やゆ》するような口調で声をかけた。  生徒会長や剣道部の部長等、肩書《かたが》きが複数ある高校生。まだ幾《いく》つかあるんだけどそれはいいとして、自分語りが大好きな菅原道真《すがわらみらざね》君である。  万能という言葉の似合う、僕と地続きの人種とは思い難《がた》い奴《やつ》だ。  思いもよらない方向から救援者が現れて、金子の顔の強張《こわば》りが弛緩《しかん》する。  けど、しかし。 「別にそんな話じゃありませんから、くだらないことに結びつけないでください」  マユは、冗談《じょうだん》を認識《にんしき》する能力が欠如《けつじょ》しているらしい。空気を読まず、本気で食ってかかった。  生徒会長も面食らい、けど即座《そくざ》に「そりゃ悪かったな」と軽くあしらう。会長は金子に鋭《するど》い流し目を送り、じゃあ何してたんだお前はと言及《げんきゅう》を促《うなが》す。 「パンフのネタ集め。部長が率先《そっせん》してやる仕事じゃないの?」。 「そんなの、僕に会えるよーとか写真付きで書いて円満解決だ」 「あんたね、集客効果って言葉をご存じか?」  呆《あき》れ顔ながらも、金子《かねこ》は友好的な態度で同学年の生徒会長と談話を開始する。  薄《うす》い壁《かべ》が張られた。明快な人間関係の提示で、僕らが入り込むのを予防する。  こちらとしても蚊帳《かや》を張られて、外に佇《たたず》む必要は何処《どこ》にもない。 「帰ろうか」  そう言うと、マユは「うん」と返事をして、僕の手を握《にぎ》った。  階段を下りきっても、下駄《げた》箱まではその手と一緒《いっしょ》だった。  部屋に帰って、マユは「えろいことするぞ」と元気よく宣言した。  で、意気|揚々《ようよう》とソファに飛び乗ったマユは、僕がバッグから着替《きが》えを取り出している間に夢の国へ旅立っていた。俯《うつぶ》せで、そのまま放置したら首の筋を痛めそうだったので、寝室《しんしつ》に運ぶ。小さめの体躯《たいく》を抱《かか》えて、ベッドに寝《ね》かせる。えろいことしてやろうかと盛《さか》る気概《きがい》も湧《わ》かず、布団《ふとん》を被《かぶ》せて、部屋を出た。 「いつ起きるんだろう……」  恥《は》ずかしながら炊飯《すいはん》の技術は所持していない。僕は我慢《がまん》しても、あの二人の食事をどうにかしないと。私服に着替えてから、和室の襖《ふすま》をスライドした。 「あ、おかえりなさい」  挨拶《あいさつ》が返ってきた。ここで、君達の家かよここはなどと、無粋《ぶすい》な受け答えをするのも馬鹿《ばか》らしい。「ただいま」と、礼節に基づいた。  二人は寄り添《そ》って座り、昨日と大差ない景色《けしき》。違《ちが》うのは、膝元《ひざもと》に毛布をかけていること、朝食を載《の》せていた皿があることぐらいだ。 「あの、これ、ありがとうございます」  浩太《こうた》君が頭を垂《た》れ、前髪《まえがみ》を派手に振《ふ》り乱す。毛布を指で摘《つま》み、嬉《うれ》しそうにはにかむ。杏子《あんず》ちゃんは、お友達である壁と向き合っていた。 「あんず、お礼」  兄が妹の服の袖《そで》を引っ張る。妹は、不満そうに目を吊《つ》り上げる。 「こーた、バカじゃないの。こいつはゆーかいはんなんだよ。なんでおれいなんか言わないといけないのよ」  仰《おつしや》るとおりである、至極《しごく》単純かつ真っ当な正論。 「おにいさんはぼくたちを誘拐《ゆうかい》なんかしてないじゃないか」  これもまた正論だけど、こちらについては聞き流すことを良しとは出来ない内容だった。 「いやいや、僕が誘拐したことにしてほしいんだけどね」  その言葉に、二人とも不可解そうな表情を向ける。当然だろう、本来なら両者とも罪を問われるのが常識なのだから。僕は偽善《ぎぜん》的な対応をしているけど、この子達が監禁《かんきん》されていることを黙認《もくにん》している時点で、ただの共犯者である。 「それにお礼はいいんだ。池田《いけだ》さんは朝にちゃんと言ってくれたから」 「っ!」  杏《あんず》子ちゃんの瞼《まぶた》と口がぱくぱくする。同時に開閉とは、無意識|故《ゆえ》に為《な》せる高等技術かも。 「そうなの?」  浩太《こうた》君が顔を覗《のぞ》き込もうとするのを避《さ》けるように、杏子ちゃんは部屋の隅《すみ》に逃避《とうひ》してしまう。自己|嫌悪《けんお》にでも陥《おちい》っているのか、僅《わず》かに頬《ほね》と耳が朱色《しゅいろ》に染まっている。 「お腹《なか》は空いてる、よねやっぱり」  浩太君が正直に頷《うなず》く。恐怖《きょうふ》が軽減されたのか、首|振《ふ》り運動が潤滑《じゅんかつ》になっている。 「もう少し待ってくれるかな。今おねえさんは寝《ね》てるから、ちょっと待って起きなかったら弁当でも買ってくるよ」  味も値段も普通《ふつう》の、片道三十分の距離《きょり》にあるコンビニか、味が悪く値段の高い弁当を販売《はんばい》している近場のスーパーか、どちらへ行くか先程《さきほど》から検討している。 「あのおねえさん、よく寝てますよね」  浩太君が苦笑する。 「この前の日曜日は、土曜日からずっと寝てて、月曜日にやっと起きてきましたから」  ……睡眠《すいみん》時間が活動時間に勝《まさ》る生活って、生きてるといえるのかな? 「そりゃ災難《さいなん》だったね。まあ、今週末は大丈夫《だいじょうぶ》だと思うよ、僕がいるから」 「おにいさん、ここに住むんですか?」 「そういうことかな。新参者だけど、今後ともよろしく」  冗談《じょうだん》めかして手を差《さ》し伸《の》べてみる。おずおずと浩太君の手が伸び、手の平を触《ふ》れ合わせる。妙《みょう》に滑《ぬめ》りがあり、生理的に受け付けない触感《しょっかん》だった。 「垢《あか》か……。風呂《ふろ》は、微妙《びみょう》だよなあ。入《はい》らしてはあげたいけど、そこまで自由には出来ないし……」  足|枷《かせ》を外して、それが仇《あだ》となって逃亡《とうぼう》されれば間抜《まぬ》けの極致《きょくち》だし。  けど実際、この子達をどうすればいいのか。算段も、閃《ひらめ》きもない。  どうこの子達を処理して、平穏《へいおん》を迎《むか》えればいいのか。 「あの……」  考えに沈《しず》んでいた僕に、浩太君の控《ひか》えめな声がかかる。 「おにいさんは、おねえさんの友達なんですか?」 「全然|違《ちが》うアルヨロシネ」  中国風日本語が堪能《たんのう》であることを誇示《こじ》しようとしたら、物の見事に失敗した。何事もなく続けた。 「僕はマユに友情を感じたことはないし、多分マユもない。ただ、大切にしたい人っていうだけだよ」 「……よくそんな恥《は》ずかしいこと言えるわね」  ぼそりと杏子《あんず》ちゃんが呟《つぶや》く。世間の感覚では、羞恥溢《しゅうちあふ》れる言葉に分類されるのだろうか。私の英訳とかの方がよっぽど口にするのが憚《はばか》られるけどな。 「だから多分、君達の関係に近いのかな」 「あたしはそんなんじゃないわよ!」  浩太《こうた》君が「なるほど」と納得《なっとく》する瞬間《しゅんかん》を破壊《はかい》し、杏子ちゃんが乱入してきた。浩太君は寂寥《せきりょう》感を含ませながらも苦笑し、「そうだね」と杏子ちゃんに同意する。予想より浩太君がへこんだ為《ため》か、杏子ちゃんはバツが悪そうに俯《うつむ》き、また壁《かべ》と向き合ってしまった。 「あ、いやー……嘘《うそ》だけど。うん、嘘なのだ。僕とマユは既《すで》に熟年《じゅくねん》カップルみたいなものなのだ。君らのような一桁《ひとけた》の年しか生きていない、昆虫《こんちゅう》でいえば土から出たての蝉《せみ》のような二人では及《およ》びもしないスズムシなのだ。けどスズムシの雄《おす》って雌《めす》に喰《く》われるのだ」  責任感に後押しされて場を取り繕《つくろ》むうとしてみた。当然だけど、逆効果だった。浩太君からは心ばかりの笑いを頂戴《ちょうだい》し、杏子ちゃんからは怒気《どき》に満ちた視線を投射された。僕にクラス委員の才はない。何故《なぜ》なら、僕は美化委員だからだ。 「いやはや、何とも。で、君は僕とマユが友達って確認《かくにん》したかったのか?」 「あ、え、あの、まあ……」 「マユのことが好きなの?」  誘拐《ゆうかい》犯に恋か。ストックホルムか。 「ち、違《ちが》います!そんなわけ全然ないです!」  両手と首をぶんぶんと外れそうな勢いで振《ふ》り、躍起《やっき》になって否定の意を示す。怪《あや》しい。じゃあ僕のことが好きなのか。あり得ないけど。  浩太君は耳まで桃色《ももいろ》にして、俯いてしまった。杏子ちゃんの冷ややかな視線をどう思っているのか。浩太君は、「ほんとに、そんなんじゃないです」と言い訳する。 「だって、怖《こわ》いですし」  そこで言葉を句切る。 「好きになるとかは、ちょっと……」  えー僕はー? とか素《す》っ頓狂《とんきょう》に反応してやろうか。 「騒《さわ》ぐのもどうかなって思うし……」 「ん〜 ……騒ぐとな〜」  何気なく呟《つぶや》いた浩太君の一言に食いつく。浩太君は少し挙動を戸惑《とまど》わせながらも、二度ほど頷《うなず》く。杏子ちゃんも、それに続いて顎《あご》を引いた。 「なんていうか、夜中にすっごく大きく叫《さけ》んだりしてます、けど……あ、毎日じゃなくて」 「……ふーむ」  顎《あご》に手を当てて悩《なや》むふり。けど考えるまでもなく、それは世間でいう病気オブハートだ。 「PTSDの類《たぐい》だよな……」  先生はそのことを知っているんだろうか。マユは外来の定期検診にも行っていないはずだ。 「寝惚《ねぼ》けていたっていうのが、一番楽な結論なんだけどね……」  しかし、それはあり得ない。夜中に起床《きしょう》して寝惚けるなどという技術をマユは持ち合わせていない。それに寝付きはいいが、寝起きはぐだぐだで叫《さけ》ぶ余裕《よゆう》もない。 「……知らなかったんですか?」  浩太《こうた》君の質問には、意外性が多く伴《ともな》っていた。でも別に意の外になど何もない。なにせ僕は御園《みその》マユのことなど何も知り得ない。それこそ名前とニックネームとペンネームぐらい。言うまでもなく、 一つだけ嘘《うそ》だ。 「別に知りたくないからね」  何割が嘘か自分でも判別出来ない、二人は、「はあ」だの「ふうん」だの気の抜《ぬ》けた返事だけだった。  マユの側《そば》へ行こうと腰《こし》を上げる。が、その前に二人を一瞥《いちべつ》する。  頭の旋毛《つむじ》から足の爪先《つまさき》まで眺《なが》めて、思いつきを実行することにした。 「焼け石に水というか、樽一杯《たるいっぱい》の汚水《おすい》にワインを一滴というか……。服|脱《ぬ》いで。洗濯《せんたく》してくるから」  服を着せたまま本人を湯船に入れた方が手間いらずだけど、そうもいかない。二人は瞳孔《どうこう》を開き、何度か瞼《まぶた》を瞬《まばた》かせてから、ようやく僕の提案に反応を示した。 「いいんですか?」 「よくないんですか」  僕が善行を積むことはそんなに疑わしいかこの野郎《やろう》。 「い、いいと思いますけど……」  軽く怯《おび》えさせてしまったらしい。反省。某《ぼう》国際的ランドの中の人みたいに、客に対しては行儀《ぎょうぎ》良く接することを己《おのれ》に課した。 「それじゃ、服を脱いでくれるかな」  柔《やわ》らかい口調で右手を差し出す。浩太君からシャツとズボン、それに恥《は》ずかしげに脱《ぬ》いだ下着を頂戴《ちょうだい》した。それから杏子《あんず》ちゃんに視線を向けると、毛布で身を隠《かく》し、窮屈《きゅうくつ》そうに中で蠢《うごめ》いている。そして、丸まった衣服が載《の》せられた手を毛布の隙間《すきま》から突《つ》き出す。受け取ってから、退室した。  異臭《いしゅう》の源泉たるものを抱《かか》えて脱衣所に到着《とうちゃく》し、洗濯《せんたく》機に投げ込む。水に浸《つ》からせたら、洗剤《せんざい》を入れる前に薄黒《うすぐろ》く変色してしまった。辟易《へきえき》するような汚《よご》れ。仕方なく、服を引き揚《あ》げてその場で手洗いを行い、表面上の汚れを落とした。それから排水《はいすい》し、もう一度服と洗剤もぶち込み、作業を開始してもらった。見届けた後、次の用意をする。  バスルームへ向かった。まず僕の滑《ぬめ》り気《け》を帯びた手を洗浄《せんじょう》する。それから風呂桶《ふろおけ》を用意し、シャワーのコックを捻《ねじ》って温湯をなみなみと注ぐ。その中にタオルを何枚か浸《ひた》して、そのまま部屋へ運んだ。 「はい、これで身体拭《からだふ》いて」  余程想定外だったのか、二人は口をあんぐり開く。やはり僕に善行は似つかわしくないようだ。かといって悪行が出来るほど有能でもない。 「本当に、ありがとうございます」と浩太《こうた》君から立場を忘れていそうなほど感謝される。ふむ。 「至れり尽《つ》くせりだね」 「その通りですね」  いや肯定《こうてい》するなよ。  浩太君も毛布に入り込み、杏子《あんず》ちゃんの体を拭き始めた。過保護な関係は当然として受け入れられているらしい。タオルが毛布の外に出ると、ヤニの付いた窓を拭いたような黄土色が付着していた。すぐに浩太君はタオルをお湯に浸《つ》けて絞《しば》り、また作業を再開する。その過程は見えないけれど、美術品を磨《みが》くように、隙間《すきま》なく丁寧《ていねい》に妹の肢体《したい》を清掃《せいそう》している兄の姿は伝わってきた。その無償《むしょう》に限りなく近い献身《けんしん》的な態度は、僕に蜜柑《みかん》の皮むきを思い起こさせた。  僕にも妹がいた。この二人みたいに、良好な関係を築くことは不可能だったし、血の繋《つな》がりは半分だけだったけど。ワガママな妹は蜜柑が好きで、一年中、朝昼夜の主食としていた。肌《はだ》が黄ばむぐらいに、毎日|飽《あ》きもせず蜜柑|尽《つ》くし。その蜜柑の皮むきと、白い筋を取るのが僕の仕事だった。感謝の言葉なんて一度として頂戴《ちょうだい》したことはないのに、僕はそれを今|懐《なつ》かしみ、嫌悪《けんお》することはない。多分、嫌《きら》う理由がないからだと思う。妹が好きだったわけじゃないけど。  磨き終えたのか、浩太君が毛布から出る。杏子ちゃんも、首もとまで毛布で覆《おお》いながら、黄ばみの取れた顔だけ外に露出《ろしゅつ》した。そのてるてる坊主《ぼうず》みたいな杏子ちゃんに感想を求めた。 「池田《いけだ》さん、多少は気分とか良くなった?」  杏子ちゃんは、目一杯《いっぱい》不満そうに唇《くちびる》をへの字に曲げながらも、小さく頷《うなず》きを見せる。そしてぽつりと、僕に許しを与《あた》えた。 「……あんずでいい」 「あんず……ああ、呼び方。いいの?」 「…………………………」  二度も言わせるな、と目で意見された。 「分かった、杏子ちゃん」 「ちゃんはいらない!」  マユと真逆な台詞《せりふ》に、肩《かた》を竦《すく》める。どうやら、好感度がマイナス2からx軸《じく》y軸共に0地点までは上昇したらしい。果たしてそこから右|斜《なな》め上へ向かう余地は残されているのか。 「乞《こ》うご期待」 「はい?」  いやいや、と兄の方に向かって手を振《ふ》った。そういえば浩太《こうた》君が兄を用いた名称《めいしょう》で呼ばれているのを聞いたことがないな。二人きりだと呼んでいるとか、そんな感じかな。  タオルを裏返し、汚水《おすい》を絞《しぼ》り出してから浩太君が自分の身体《からだ》を拭《ふ》く。杏子《あんず》ちゃんの時とは明らかに異なる雑な手つきで全身の汚《よご》れを大まかに取り、烏《からす》の行水《ぎょうずい》より素早《すばや》く終えてしまった。 「さっぱりしました」  そう言って、柔和《にゆうわ》な顔つきを、更《さら》に破顔させる。 「ああ、ご好評なようでなによりです……」  適当に相づちを打ちながら、浩太君の身体の観察を継続《けいぞく》する。  浩太君の肌《はだ》もまた青白く、けれど一つだけ異なる主張をするものがあった。  それは、本来なら服で隠《かく》される脇《わき》や内股《うちまた》に残る、内出血の痕《あと》。  痣《あざ》が、点々と刻まれていた。  色は変色し、カビのようになっている。 「……じゃあ、おべべが乾《かわ》いたら持ってくるから」  桶《おけ》をひったくるように抱《かか》えて、席を立つ。二人は不思議そうに首を傾《かし》げたけど、それを無視してそそくさと部屋を後仁した。襖《ふすま》を閉め、歩く足を意識しながら床《ゆか》を踏《ふ》み、洗面所に汚水を流してタオルを冷水で洗い、雑巾《ぞうきん》絞りをしてからようやく、ぼやいた。 「なんつうかさ……」  かなり厄介《やっかい》な子達を連れてきたんじゃないか、まーちゃん。  他人の詮索《せんさく》なんて趣味《しゅみ》じゃないけど、こういった些細《ささい》な見聞の積み重ねによって深入りする可能性の高まりは否定出来ない。それは危《あや》うい。僕はこれでも人情《にんじよう》派。ホントはどちらかというと刃傷《にんじょう》派。どっちも嘘《うそ》だけど。 「マユに付けられた傷《きず》、じゃないと思うけど……」  昨夜の一件からして、好きだからとか反吐《へど》の臭《にお》いがする理由で彼女の無罪をごり押しすることは難しい。けど、しかしだ。あのマユが理性的に暴力を振《ふ》るうとも、考え辛《づら》い。人目に付かない位置を狙《ねら》っての打撃《だげき》など、かしこさ十九のマユでは実践《じっせん》すると思い難《がた》い。彼女なら、例えば杏子ちゃんが徹底《てってい》的な反抗《はんこう》意志を見せれば、即座《そくざ》に足を翻《ひるがえ》し、横っ面《つら》に蹴《け》りを一閃《いっせん》しているだろう。 「……ほんと、意味不明な誘拐《ゆうかい》だよ」  誘拐犯本人に至っては、既《すで》に興味の対象が僕にしかなさそうだ。そもそもマユは何故《なぜ》あの子達を誘拐したか、そうそう、それだよ。マユが目覚めた時まで覚えていたら独占《どくせん》取材しよう。別に是《ぜ》が非でも知りたい事柄《ことがら》じゃないけど、一応。  洗濯《せんたく》機の稼働《かどう》音に耳を傾《かたむ》けながら、暫《しばら》く天井を見て過ごした。人の顔のように見える染みとかはない。清潔で潔白で味気ない景色《けしき》しかないけれど、脳味噌《のうみそ》を駆動《くどう》させるには都合がいい。御園《みその》マユの寝顔《ねがお》を思い浮かべる。  一切《いっさい》の表情をなくした彫像《ちょうぞう》の面。  御園マユの寝姿《ねずがた》を思い浮かべる。  呼吸も停止させたように、夢中に身を委《ゆだ》ねる姿。  そんな静寂《せいじゃく》に満ちた彼女が叫《さけ》び出すなんて突拍子《とっぴょうし》もないことを、  三日後、目《ま》の当《あ》たりにすることになった。  それは言語化出来ない音質だった。  獣《けもの》の炮吼《ほうこう》とは異なる、切り裂《さ》くように鋭利《えいり》な絶叫《ぜっきょう》。  それは部屋の輪郭《りんかく》の歪《ゆが》みを感じ取れるほどの手応《てごた》えがあった。 「マユ? おい、マユ!」  深夜テレビの通販紹介《つうはんしょうかい》を放置して、リビングから寝室《しんしつ》に駆《か》け、電灯《でんとう》を点《つ》ける。そして、横になった姿勢のまま奇声《きせい》をあげて、目に混濁《こんだく》を浮かばせるマユの肩《かた》を揺《ゆ》さぶった。 「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……」  延々《えんえん》と、怨々《えんえん》と呪誼《じゅそ》を口ずさむ。マユの身体《からだ》を起き上がらせると、それに呼応したように頭を抱《かか》え、頭皮を掻《か》きむしり始めた。 「おい、止めなって!」 「いたい、頭がいたいぃぃぃぃぃ!」  両方の意味で痛そうだなおい!  血走った目で中空を睨《にら》み、食いしばった歯から白泡《しらあわ》を吐《は》き出す。  骨と筋と血管が浮かび上がる細腕《さいぼう》が僕の手を振《ふ》りほどこうとする。髪《かみ》を振り乱し、狂乱《きょうらん》的な動作で暴れる。マユの手が僕の頬《ほお》に当たり、そのまま爪《つめ》で力任せに引き裂《さ》かれた。サッと熱の亀裂《きれつ》が走る。ミミズ腫《ば》れどころか出血を促《うなが》しているらしい。 「いたいいたいいたいぃぃぃぃ!」 「分かった、分かったから! 落ち着いて!」  僕の声など届きはしない。ただその存在を鬱陶《うっとう》しがっているだけ。  それが僕と彼女の関係の本質であると、何処《どこ》かで肯定《こうてい》していた。  今度は眼球の周囲に爪《つめ》を立て、自傷|行為《こうい》に走ろうとする。同年代の人間を凌駕《りょうが》する力で顔面を引き裂こうとするのを、何とか押さえ込もうと手首を掴《つか》み、握《にぎ》り潰《つぶ》すほど力を込める。へし折ってもこの際構わないと考えたけど、そこに至ることはなかった。 「う、ううううううううううううううう」  マユの身体《からだ》が、突如《とつじょ》折れた。身体は相も変わらず強張《こわば》っていたけど、それは内から溢《あふ》れる何かを押さえる為《ため》に向いていた。唸《うな》り、発汗《はっかん》を全身から促《うなが》す。 「マユ?」  マユの手を、半ば無意識に手放した。  そしてそれを引き金としたように、  その場で嘔吐《おうと》した。  四肢《しし》を引きつらせ、醜悪《しゅうあく》な音と共に胃液と中身をベッドに撒《ま》き散らす。僕の足や膝《ひざ》にも降りかかり、酸の効《き》いた臭《にお》いが部屋に広まってゆく。涙《なみだ》を流しながら吐《は》き統けるマユの背中を撫《な》でることもせず、ただ呆然《あぜん》と事の成り行きを眺《なが》めていた。  何度もむせ返り、一旦《いったん》停止してから嘔吐を再開させる。鼻からも流れて、息苦しそうに白目を剥《む》きながら、それでも吐き尽《つ》くすように前傾《ぜんけい》姿勢を崩《くず》さなかった。  マユはそのまま顔を上げず、胃液の染み込んだシーツに顔を伏《ふ》せた。僕はそこでようやく、マユの身体を起こし、衰弱《すいじゃく》した顔を軽く拭《ふ》いてから、そのまま抱《だ》き寄せた。 「大丈夫《だいじょうぶ》だから」  肩《かた》で息をするマユに、意味のない言葉をかけた。 「ここには、僕とまーちゃんしかいないから。まーちゃんを苛《いじ》める人達はやって来ない。ずっとずっと訪《おとず》れない。だから、大丈夫」  背中をさすると、またマユは少し嘔吐した。首筋にかかる生|温《ぬる》い液体に鳥肌《とりはだ》が立つ。けど不快とは感じないし、離《はな》す気も起きない。  今度はマユが、僕の手首を掴《つか》んだ。  手入れのされていない爪《つめ》が血管に刺《さ》さり、そのまま動脈を突《つ》き破るのかと思った。 「やめてよ」  マユは誰《だれ》かにそう言った。心当たりは、何人かいた。  マユが見ていたもの。  マユが感じていたもの。  それはきっと、僕も共有している。  一時間はその状態を維持《いじ》した。マユは、震《ふる》えに苛《さいな》まれながら僕の手首を握《にぎ》り続けていた。既《すで》に手は鬱血《うっけつ》し、壊死《えし》寸前に思えるほど黒色の絵の具を内部から生産している。  それでも、マユに落ち着きが少し戻《もど》ったのなら、何も問題にするべきことはない。 「みーくん、みーくん……」 「大丈夫だから」  マユの額の汗《あせ》を拭《ふ》き、何百回と繰《く》り返した薄《うす》い台詞《せりふ》がまた口をついて出た。 「ほっぺ、傷。どうしたの。血が出てる。痛いよ」  カタコトっぽい口調てひり痛い頬《ほお》を指摘《してき》してくる。 「ああこれはね、さっき木の枝で引っかけたんだ」 「あ、ああそう、そうなんだ。痛いよ」  傷に指先で触《ふ》れてくる。取り敢《あ》えずこの話題は殺して、次に進むことにした。 「そんなことよりまーちゃん、お医者さんから貰《もら》った薬はある?」  意図的に、子供に言い聞かせる文体で話す。マユは何度も小刻みに首を横に振《ふ》る。 「お医者さんのところにどうして行かないの?」 「だ、だってだって、あいつ嫌《きら》い。わたしに嘘《うそ》ばっかり言うから嫌い」  つまり僕も嫌いなんだなまーちゃん。まあそれはどうでもいい、仕方ないから僕が常備していた薬を飲ませよう。 「今から薬を持ってくるからここで待って……」 「や、やだやだやだ。わたしも行くみーくんと行く一緒《いっしょ》に行く」  僕の腰《こし》に、縋《すが》るようにしがみついてくる。頭を一撫《ひとな》でして、それを受け入れた。  マユを抱《かか》えて、ベッドから下りる。子供な手を握《にぎ》り、大丈夫《だいじょうぶ》と何度も言い聞かせて落ち着かせる。笑顔《えがお》を作る練習をしておくべきだったと、少しだけ後悔《こうかい》した。  リビングに向かい、置いてある僕のバッグのポケットから、薬剤の入った紙袋《かみぶくろ》を取り出す。それを口でくわえ、早足で台所へ入った。不安げなマユを自前の足で立たせ、棚《たな》からガラスのコップを取って水を汲む。 「はい、これを飲むと気分が良くなるから」  別にいけないお薬ではない。袋から錠剤《じょうざい》を二つ取り、マユの頼《たよ》りない手の平に載《の》せる。落ち着きなく視線が動くマユに、コップを渡《わた》そうとすると、 「あっ」  マユの肩《かた》が顕著《けんちょ》に反応し、指がコップを弾《はじ》いた。宙を彷裡《さまよ》い、椅子《いす》に引っかかりながら床《ゆか》へ落下する。硝子《がらす》の筒《つつ》は鈍《にぶ》い音を断末魔《だんまつま》とし、砕《くぼ》けて大きめの破片《はへん》となった。 「あ、ああ、あ、ごめんねごめんねごめんね」  マユが誰《だれ》かに必死に許しを請《こ》う。屈《かが》んで、素手《ずで》で破片を回収しよラとしたのでそれを遮《さえぎ》り、軽く抱擁《ほうよう》して背中をさする。 「いいから、ね。誰もまーちゃんを怒《おこ》らないから」  零《こぼ》れた水が足の指先に染みる。破片を踏《ふ》まないようにと、そのまま少し離《はな》れ、脆《もろ》そうなマユの肩《かた》を優《やさ》しく叩《たた》く。床《ゆか》に転がる薬を放置し、新しい薬を取り出してマユの手に握《にぎ》らせる。それからまた、次のコップを取って水を汲み直した。 「薬、口に入れて」  マユの手を導き、肉付きの薄《うすく》い唇《ちびる》を開かせ、錠剤《じょうざい》を赤白い舌の上に置いた。そして今度は、マユの手の甲《こう》に僕の手も添《そ》えて、ゆっくリコップを傾《かたむ》ける。微細《びさい》に揺《ゆ》れる唇にコップが口づけられ、水が口に流し込まれる。音を立てて嚥下《えんか》し、それを見届けてからコップを離《はな》した。 「ん、えらいえらい」  頭を緩《ゆる》く撫《な》でる。マユが僕の胴体に付着し、顔を胸に埋《うず》めた。  流しに水を捨て去り、コップを置く。それからマユを引きずって移動し、3LDKのLにあるソファでマユをあやす。 「テレビでも見ようか。まーちゃんが眠《ねむ》くなるまで、僕も起きてるよ」  ブラウン管を眺《なが》めると、玉葱《たまねぎ》スライサーの紹介《しょうかい》はとっくに終了し、今度は金真珠《きんしんじゅ》の販売を大々的に行っていた。 「みーくん、みーくん」  脳天気成分が微塵《みじん》もない、必死な呼びかけ。無言ながら、髪《かみ》を撫でてそれに応《こた》える。 「みーくんは、わたしのこと苛《いじ》めないよね」 「苛めないよ。まーちゃんの味方だから」 「そうだよね、みーくんは味方。みーくんは味方……」  譫言《うわごと》のように繰《く》り返す。自身に刷《す》り込むような行動に、口は挟《はさ》まない。 「みーくんはわたしを助けてくれる。幼稚園《ようちえん》の時も蜂《はち》から助けてくれた。小学校の時も嫌《いや》な先生から助けてくれた。いつだって一緒《いっしょ》にいてわたしを助けてくれた。ずっとずっとわたしの味方。だからみーくんはわたしを苛めない一緒にいてくれる一緒に一生裏切らない嘘《うそ》つかない」 「……よしよし」  お茶を濁《にご》す態度を取った。だって、最後のは、ねえ。 「明日は、お医者さんのところに行こう」  ふるふると、小動物のように首を振《ふ》って拒否《きょひ》した。チワワっぽくて、美人はどんな状況《じょうきょう》でも良い役者になるなあと、不謹慎《ふぃきんしん》にも和《なご》む。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、僕も一緒に行くから。それでその後はデートしよう」  注射を嫌がる子供の説得みたいだな。マユは、一つの単語を抽出《ちやうしゅつ》して反芻《はんすう》する。 「でーと」 「そう、デート。僕と遊ぶのは嫌《きら》い?」  また小動物化して否定した。先程《さきほど》より微震《びしん》になっていた。 「みーくんと、遊びたい」 「うん。まーちゃんが行きたいところへ行って遊ぼう」  近場には公園ぐらいしかないけど。否応《いやおう》なしに選択肢《せんたくし》が狭《せま》いのが、田舎《いなか》の嫌な持ち味だ。 「だから、お医者さんに行くよね」  だからとか、全く因果関係が繋《つな》がっていないけれど、マユはがくがくと首を縦に振った。ダボハゼ級に釣《つ》り針《ばり》に引っかかってくれる。 「うん我慢《がまん》する。嘘《うそ》つきに会う。みーくんも一緒《いっしょ》に来てくれるんだよね」 「勿論《もちろん》」と力強く肯定《こうてい》する。そこで落ち着いたのか、マユは水を与《あた》えすぎた植物のようにへたり込み、ソファに寝転《ねころ》んだ。  そして、三十分で一時間分の脂肪《しぼう》燃焼効果がある歩行運動器具を無言で観賞して、やがて瞼《まぶた》を下ろした。寝息を漏《も》らすこともなく、電源を切ったように活動を停止させる。  テレビの電源も切る。そのまま、マユをソファに横たわらせて、寝室《しんしつ》に行く。汚《よご》れたシーツを引《ひ》っ剥《ぱ》がし、最初にこの部屋で見たように丸める。それから僕の使っている、嘔吐物《おうとぶつ》の降りかかっていない布団《ふとん》を持って、暗闇《くらやみ》に部屋を譲《ゆず》ってからマユのもとへ戻《もど》る。マユに布団を被《かぶ》せてから、少しだけ寝顔を眺《なが》めた後、いつも通りに就寝の挨拶《あいさつ》をした。 「おやすみ」  いつも通り、マユからの返事はない。部屋の灯《あか》りを落とした。  ……今更《いまさら》言うまでもない話だが、僕とマユは寝床《ねどこ》を共同使用している。当然、そこでは睡眠行為《すいみんこうい》にしか及《およ》んでいない。実に健全、R指定とは無縁な間柄《あいだがら》だ。  身震《みぶる》いする部屋の空気。床の冷たさは、冬の影《かげ》を踏《ふ》んだようだった。早々の退散を決め込み、何処《どこ》で寝ようかと思案しながら部屋を後にしようとして、 「あのー」  浩太《こうた》君の控《ひか》えめな声が襖越《ふすまご》しに配信されてきた。方向転換《てんかん》し、襖を開いて畳《たたみ》に足を付ける。低い天井《てんじょう》から垂《た》れ下がる紐《ひも》を引っ張り、蛍光灯《けいこうとう》を起床《きしょう》させた。  二人は毛布にくるまって座っていた。ただ、表情は眠《ねむ》たげで、目をしきりに擦《こす》っている。 「その汚《よご》れ、どうしたんですか?」 「二日|酔《よ》いのままメリーゴーランドで夜明かしさ。それより、起こしちゃった?」 「あ、へーきです、こーいうの慣れてますから」 「慣れてる?」  微妙《びみょう》な発言だった。二人にとっては失言だったのか、杏子《あんず》ちゃんは「ばかこーた」とのんびり呟《つぶや》き、脇《わき》の肉を抓《つね》る。浩太君は眉根《まゆね》を寄せながらもへらへら笑って追及《ついきゅう》から逃《のが》れようとした。まただ。また何かが積み重なっていくような錯覚《さっかく》に囚《とら》われる。というかもう十中八九の確率で、この子達に降りかかっていた災厄《さいやく》、厄災でもいい、それが見え始めて、見終え始めたと確信している。いくら詮索嫌《せんさくぎら》いの僕が相手でも、そこまで前振りしないでいただきたいのだが。  話題を逸《そ》らさねば。僅《わず》かな方向修正から、ズレを生じさせねば。 「しかしあれだね、あれだけ騒《さわ》いでよく立ち退《の》き勧告されない……」  ピン、ときた。  頭に電球を装着して閃《ひらめ》きを表したいぐらいだ。 「おにいさん?」  違和《いわ》感にようやく気付いた。自身の経験とは噛《か》み合わないから、目前に晒《さら》されて尚《なお》正体を看破出来なかった。それは状況《じょうきょう》の差異があったからこそ、僕らに施《ほどこ》されなかった処置だ。 「なんでだ?」  主語のない問いかけに、浩太《こうた》君は怪訴《けげん》な表情をした。杏子《あんず》ちゃんは特に反応なし。  簡単なことだ。この子達は、僕と会話している。つまり、口が塞《ふさ》がれていない。マユの狂騒《きょうそう》が苦情や問題になってないとするなら、マンションの防音は完壁《かんぺき》ということなのか。だけど更《さら》に、この子達の足は不自由、手は自由気まま。壁《かべ》を叩《たた》いて金切り声あげて、全身全霊で騒《さわ》ぎ続ければ、流石《さすが》に隣室《りんしつ》にまで響《ひび》くはずだ。それで室内に捜査《そうさ》が及《およ》べば、足枷《あしかせ》が逆に動かぬ証拠《しょうこ》となって、手錠《てじょう》のアクセサリが僕らに贈与《ぞうよ》されるだろう。 「うわ、穴だらけ」  何て手際《てぎわ》と対策の雑な犯行なんだ。先程《さきほど》のマユじゃないけど、頭を掻《か》きむしりたくなった。僕も現実を見たくなーいー。 「あのさ、君達……」  そこでまた言葉を途絶《とだ》えさせる。あのさ君達、何で大人しくこの部屋にいるの。それを尋《たず》ねた瞬間《しゅんかん》、流しそうめんのような勢いで、望ましくない何かが始まる気がした。  挙動|不審《ふしん》な僕に、浩太君は目を丸くしている。僕の言葉を律儀《りちぎ》に待っているのかも知れない。一方杏子ちゃんは、普段《ふだん》の険しさは消え失せ、寝惚《ねぼ》けた表情。 「ねえ」  杏子ちゃんが、口をむぐむぐと気怠《けだる》そうに蠢《うごめ》かす。 「あの女」 「女じゃなくて、おねえちゃん」  少しだけ語気を強めて改正を促《うなが》した。あの女とはなんだ、礼儀を知れ。あれは僕の女だ。嘘《うそ》だけど。杏子ちゃんは気圧《けお》されたのか、それともただ眠《ねむ》いのか反論せずに訂正《ていせい》した。 「あのおねえちゃん、頭がおかしいんじゃないの?」  実に含《ふく》みのない、真実一路な評価だった。そんなわけねえだろこのジャリガキ、とか異論反論を述べる気は毛頭ない。 「あんず、そんな言い方は駄目《だめ》だよ」  そんな言い方が駄目なだけで、表現の行き着く先には問題ない、と。 「いや、いいけどね。あれでカラオケ大会ですかなんて感想持つ奴《やつ》は、仲間に分類されるだううし。……頭の螺子《ねじ》は足りてるはずなんだけどね」  杏子ちゃんの言葉を肯定《こうてい》する。けれど、僕はマユに対して否定的な姿勢を持っているわけじゃない。マユのそういった要素に、少なからず魅力《みりょく》を覚えているからだ。彼女の精神は喜怒哀楽《きどあいらく》の強弱高低が偏《かたよ》りすぎているけど、だからこそ常人には組み上げられない感性を内包することが可能だ。異質か異彩《いさい》か、判別が難しいのだけれど。  この子達もある程度付き合えば、理解してくれると思う。……いや、それより。 「……足りてるけど、建築に失敗したんだ。横槍《よこやり》を入れられてね」  断りなく人の過去を語る趣味《しゅみ》はないけど。  どうしてか、このまま放置しておく気にはなれず。  他人に、少しだけ昔を晒《さら》した。 「マユの両親は、僕らの目の前で殺されたよ」  感情を込めずに発言した。というか、込められなかった。何を使えばいいのやら。 「その時に、僕とマユの螺子《ねじ》は緩《ゆる》んじゃったのかな。一目で分かる不具合は、マユの方みたいだけどね。……やっぱり、僕もちょっとね」  何故《なぜ》なら、僕はマユの行動を咎《とが》めない。罪悪さえ感じない。  そうであるように、心を眠《ねむ》らせている。  二人の顔色を観察する。浩太《こうた》君は微妙《びみょう》にびくつき、杏子《あんず》ちゃんは無反応。普段着《ふだんぎ》な反応だったので、僕も普通に締《し》めをすることにした。 「と、いうことでだよ。マユのことを悪く言うぐらいなら、先に僕を罵《ののし》ってほしい。いやいや別に倒錯《とうさく》的意味合いはない。ただ、自分の悪口の方がマシだからね、うんそれだけ」  最後は口早に告げ終えた。差恥《しゅうち》に身を捩《よじ》りたかった。何だよ罵ってほしいって。  お話が終わって、質問コーナーを設ける気はなかったけど、微妙に覚醒《かくせい》した杏子ちゃんが素朴《そぼく》な疑問をぶつけてきた。 「なんであのおねえちゃんをそんなに庇《かば》うの?」  好き好き大好き超アレしてるから。嘘《うそ》だけど、とは言い難《づら》いなあ。 「大切だからだよ、あんず」  浩太君が真っ先に反応した。  面倒《めんどう》な方向に飛び火しそうな気配を察し、話題を微妙にすり替《か》えることにした。 「昔ね、今と似たようなことを聞かれた人がいた」 「……? 誰《だれ》ですか」  浩太君が問う。特定名詞を使用せずに、それに答えた。 「誰かの母親。子供の身代わりになって殺された人。その人は震《ふる》えながら、それでも迷わずにこう答えたんだ」  一拍《いっぱく》置いて、かつて耳にしたことをそのまま口にした。 「母親だから、って」  二人は眉根《まゆね》を寄せた。眉唾物《まゆつばもの》だとでも思っているのだろうか。  だけどこれは嘘じゃない。  僕は確かに、彼女の母親がそう言ったことを覚えている。  それは数少ない、  したくとも虚偽《きよぎ》に出来ない、想《おも》い出《で》。  そして、それが、  マユを庇《かば》う、僕の最たる理由でもある。  音量全開のヘヴィメタルが扉越《とびらご》しに耳を劈《つんざ》く。  一階の待合室の窓から透視《とうし》するのどかな昼前の景色《けしき》とは相|容《い》れないBGMに顔をしかめているのは僕だけだった。僕しか近辺に人がいないからだ。ただでさえ人口の少ない人里からさらに離《はな》れた、山の麓《ふもと》にある建物は、消毒の匂《にお》いが薄《うす》い。何故《なぜ》ならここは、心の病院だからだ。  ペンキが剥《は》げかけている白|塗《ね》りの扉が開く。派手に扉を閉めて退出したマユは、あからさまに不満を顔に宿していた。マユが僕の隣《となり》の椅子《いす》に倒《たお》れるように座り込む。 「お疲《つか》れ。どうだった?」  普段《ふだん》より声量を上げて話す。意識的にそうしないと、声が別の音に喰《く》われる。 「もう来ない。あんな嘘《うそ》つき、だいっきらいだ」  子供の部分を隠《かく》しもせず、不満を吐《は》き捨てる。今日のマユは僕が洗濯《せんたく》した余所《よそ》行きの服を着て、深くベレー帽《ぼう》を被《かぶ》っている。 「どんな嘘を言われたの」 「知らない。嘘つきの話なんか覚える価値がない」  しかし何故《なぜ》か僕の言葉は覚えている。それが分からない。  座った時に位置がずれた、マユの帽子を修正してから席を立つ。 「じゃ、ちょっと待ってて。次は僕の番だから」 「もの凄《すご》く嫌《いや》」  振《ふ》り上げた足を、駄《だだ》々っ子のように地面へ叩《たた》き付けた。その際にスカートが一瞬《いっしゅん》めくれ、太股《ふともも》の外側に一際《ひときわ》目立つ、長細い傷痕《きずあと》が覗《のぞ》けた。まだ、あんなにご健在でしたか。お懐《なつ》かしゅうござらない。 「デートするんでしょ? こんな所にいる意味ない」  茶色のブーツが連続で床《ゆか》を蹴《け》り、廊下《ろうか》に音を響《ひび》かせる。けれどそれも、場の音楽に消化されて、聞き取りを困難《こんなん》にしていた。 「今日は検診日なんだ。少しだけ我慢《がまん》して、お願い」  拝《おが》むように頼《たの》み込む。祈《いの》りが通じたのか、マユは精|一杯《いっぱい》の不満を顔に宿しながら、それでも不承不承に頷《うなず》く。 「明日もデート」 「おっけー」 「明後日《あさって》もデート」 「学校の理科室や体育館でいいなら」  そんなこんなで、部屋の主でもない少女に入室の許可を取った。  螺子《ねじ》の緩《ゆる》くなった扉《とびら》を開く。その入り口から先、窓際《まどぎわ》の椅子《いす》に座るポニーテイルの女性が目線だけを僕に向けた。  清潔な白衣に、青のミニスカート。スリッパは脱《ぬ》ぎ散らかして、足を遠慮《えんりょ》なく伸《の》ばしている。 「相変わらずだねぇ、あの子」  それが第一声だった。 「子供の頃《ころ》から何一つ変化してない。あーでも、みーくんどこーから、みーくんいるーに変わってたか。全然良い変化じゃないけど」  手に持っていたカルテを机に放《ほう》り出して欠伸《あくび》をする。なんで僕が入ってきたらくつろぎ出すんだろうこの医者。茶飲み友達と間違《まちが》えてないか。 「で、当病院から無理矢理退院してくださった生意気な娘《むすめ》さんを連れて今更《いまさら》何の御用でございましょうね、『みーくん』」 「その呼び名はマユ専用です」 「はいはいバカップル」  目元を擦《こす》り、背もたれを軋《きし》ませながらようやく、僕と向き合った。  坂下恋日《さかしたこいび》先生。三十路《みそじ》を迎《むか》えた精神科医、独身。読書は漫画《まんが》だけな大人。 「それで、どういう心境の変化かしら。御園《みその》に自分のことを明かすなんて」  腕《うで》と足を組み、品定めするように僕を眺《なが》め回す。知的美人に程良《ほどよ》く似合う姿勢だった。裸足《はだし》でなければ。 「質疑応答は、最初の問いだけでいいです?」 「別にいいわよ。どうせ嘘《うそ》しか言わないから」  見|抜《ぬ》かれていた。小学生の時からの付き合いによって、人格|把握《はあく》は完壁《かんぺき》らしい。 「マユが夜中、突然《とつぜん》頭の痛い子になったんです。で、心配ですから先生に診《み》てもらおうと思って連れてきました。それだけです」 「夜中……御園と同棲《どうせい》してるの?」  先生が目を細め、聞き逃《のが》さないといったように詰問《きつもん》してきた。精神科医なら、頭という単語に注目してほしい。 「ただ寝食《しんしょく》を共同の居住区で行っているだけ」「を同棲というわね」 「地球という限られた環境《かんきょう》下の、更《さら》に国土の手狭《てぜま》な地域である日本の一国民として蜜柑《みかん》もかくやな倹約《けんやく》節約精神を発揮して空間を有効に共同活用する」「為《ため》に同棲しているわけね、はいはい」 「……なんか怒《おこ》ってます?」 「とってもね」  音楽に合わせてこめかみを指先で叩《たた》き、足の先で軽快に床《ゆか》を踏《ふ》む。 「嘘《うそ》だけど」  芸風を真似《まね》された。しかしそんな憤《いきどお》りに溢《あふ》れる声では、その嘘自体が嘘くさかった。先生は暫《しばら》く無言で目を閉じ、最後にやれやれと首を振《ふ》って葛藤《かっとう》を終えた。 「予測はしてた。君と御園《みその》が並んで現れたもの」 「おしどり夫婦に見えちゃいましたか」 「アホか君」と侮蔑《ぶべつ》的な視線を向けられた。そして、額を指で押さえて溜《た》め息《いき》。 「飼《か》い犬を泥棒猫《どろぼうね》に寝《ね》取られた気分ね」 「どんな怒濤《どとう》の展開ですかそれ」 「初めて会った頃《ころ》は先生っていうより、せんせぇって感じでちょこまか懐《なつ》いてたのに……」  それから嘆《なげ》くように、「思春期の子供を持つ親の気持ちかな、これ」と愚痴《ぐち》混じりに呟《つぶや》く。 「まあ、君の私生活はアタシの管轄《かんかつ》じゃないから何も言えない。爛《ただ》れて腐《くさ》り落ちてもね。けど、御園《みその》の精神状態に有効かは、首を捻《ひね》らざるを得ない」  脈絡《みゃくらく》もなく正常に復旧した。  そして本当に首を捻った。べきべきと小気味良い音がした。 「あの子に君がいるってのは、良いこと尽《づ》くめとはまかり間違《まちが》っても思い難《がた》いわね。肥料なんて投与《とうよ》しすぎればただの毒だし」 「けど、らぶで満たされてます。らぶは何より尊い精神じゃないですか」 「ダウト」 「正解」  心にさえ思ってません。そんなこと。  指先で机をノックしながら、先生は呆《あき》れと苦みを混ぜた表情になる。 「嘘をつくことが癖《くせ》になってるわね、完全に。慎《つつし》みなさい」 「先生、人に嘘をつくなと言うのは、サッカー選手に物を足蹴《あしげ》にするな、登山家に山は危険だから登るなと言うようなものだと思いませんか」 「実にその通りと肯定《こうてい》してあげる。けどそれは君に適用不可。サッカー野郎や山マニアと君には小さな差異があるのよ。サッカー選手は蹴る物を選んでる。ボールを基本として、後は精々人間と自販機ぐらい。登山家だって。ご馳走《ちそう》の山には登頂を試みないでしょ。つまり節度がある。君との違《ちが》いはそれ。人生|全《すべ》てを嘘で押し通したい君は標準の人間に対する論理を用いることは出来ないの」  さらりと、君は人間じゃないと言われた。侮辱《ぶじょく》だろうか、これは。微妙《びみょう》なラインだ。  それについては後々一人で論議するとして、話を回帰させることにした。 「それで、マユのことなんですけど」 「腰《こし》が悪くなってた。あんまり無茶な体位は取らせないように」 「なに出鱈目《でたらめ》言って揺《ゆ》さぶりかけてるんですか、まだ人前でキスする程度の仲ですよ僕ら」 「そっちの方が善良な市民にとっては公害なんだけどねえ」  したり顔で揶揄《やゆ》される。それに対し僕は話題の路線を修正しようと、語気を強めた。 「マユの精神について尋《たず》ねたいんですよ精神科医の坂下《さかした》先生」  先生はジト目で僕を睨《ね》め付け、冷めた口上を切り出した。 「人類皆|嘘《みなうそ》つき。特にアタシは別格。みーくんだけが真実」  昔と代わり映えのない文字の群れを吐《は》き出し、諦《あきら》めを語った。 「あの子の治療《ちりょう》はアタシには無理。薬は出すから、毎日服用させなさい。後御園《みその》を寝《ね》かせる時は電灯《でんとう》を点《つ》けたままにすること。それで多分、突発《とっぱつ》的に騒《さわ》ぐことはなくなるから」  先生が語った対処法で、悟《さと》るものがあった。  マユの騒乱《そうらん》は突発的だ。けど、昼間、少なくとも学校では発生しない。  夜聞限定なのはきっと、暗闇《くらやみ》という環境《かんきょう》にトラウマがあるからだろう。  なるほどね、身に覚えがある。 「自分の傷痕《きずあと》を意識していないあの子は、普通《ふつう》に灯《あか》りを落として眠《ねむ》るからそんなことが起きる。薬も二回しか渡《わた》してないし、果たして何年前から苦しんでるのかしらね」  他人事の話し方だった。まあ、口を開くたびに嘘つき黙《だま》れと言われ続ければ、良い感情を維持《いじ》することなんて不可能だろう。  けれど。 「だからって、無理とか言われても……。他《ほか》の先生なら出来るってわけじゃ、ないでしょう」  先生は唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げ、笑顔《えがお》みたいな表情になる。決して笑ってはいない。 「君はアタシをどう評価してるのかな、一度|尋問《じんもん》してみたいよ。それはいいとして、御園の治療か……ねえ、治療ってなにかな」  先生が尋《たず》ね返してきた。それも、教師的な問いかけではなく、学校の級友に、ふと思った素朴《そぼく》な疑問を口にする口調で。 「何って、療法を用いて傷を治癒《ちゆ》させるってことじゃないんですか?」 「そうね、それで百点解答」  その割に溜《た》め息《いき》をつかれた。満点とは言っていないから、二百点が上限というオチかな。 「傷を治せばいいのよね」 「そうですけど」 「その怪我《けが》に処置を施《ほどこ》す刺激《しげき》で命を失うような患者《かんじゃ》でも、傷を塞《ふさ》げぜ治療、かしら」 「……いや、それは違《ちが》うと思いますけど」  僕の書葉に反応せず、考え込む姿勢に入ってしまった。指先が、組んだ足の膝《ひざ》を叩《たた》き、反対の腕《うで》で頬杖《ほおづえ》を突《つ》く。指先や足で何処《どこ》かを叩くのは、先生の癖《くせ》だ。  僕の存在を意識から排除《はいじょ》し、物思いに耽《ふけ》る。まあ、今日は僕を患者として扱《あつか》う必要はないし、文句はない。 「……えと、それじゃあ、今日はこれで」  会釈《えしゃく》して、席を立とうとする。そこで先生が呼び止めた。 「一つ世聞話してあげる」  妙《みょう》な前置きだった。姿勢はそのままで、物憂《ものう》げな視線を僕に向けてくる。半分浮いた尻《しり》を椅子《いす》に静める。  気負わない調子で、先生が話を切り出した。 「君ら、殺人犯じゃないかって疑われてるわよ」  何かを噴《ふ》き出しそうになったけど、平静を保って目尻《めじり》の震《ふる》えも押さえつけた。 「何だか最近、ここら辺で殺人事件が起きてるらしいの」  テレビを鏡代わりとし、新聞紙をゴキブリ退治のツールと信じて疑わない非文明的な社会人は、さも極秘情報を漏《も》らすように楽しげな様子だ。おっくれてるーとか言ってやればいいのか。 「君も危ない物持ってる人に話しかけられたら注意しなさい」 「……先生、昔は生徒会長とかやってました?」 「万年美化委員だった」  あれぇ?  ……さて、気を取り直して。 「それで、どちら様が疑いを?」 「そんなもの、探偵《たんてい》か警察ぐらいしかいないでしょ。人と仲良く談笑しながらあいつは殺人犯だなんて考えてるサイコな連中は」 「それもそうですね。で、どっちですかそんな嘘八百《うそはっぴゃく》を狂信《きょうしん》してる方は」 「安楽椅子警察」  それはただの職務|怠慢《たいまん》だ。 「警察と仲良しだったんですか」  以前、速度|違反《いはん》で捕《つか》まった時は、罵倒《ばとう》の限りを尽《つ》くしていたのに。 「このサイコマインドメトラーアサシンに愚問《ぐもん》を投げかけないでほしいね。ツーカーよ」  この嘘つきは何を言っているんだろう。  そのまま先生は、何事もなく話題の続きを接合する。 「高校の同級生がスケバンじゃない女|刑事《デカ》やってるの。そいつに色々|尋《たず》ねられた。変な奴《やつ》でね、小学校の文集で探偵になりたいとか夢見がちなことを書いてたよ」  懐古《かいこ》に浸《ひた》ることなく、淡々《たんたん》と言う。本人としては、高校時代など昨日の晩飯ぐらい身近な記憶《きおく》にあるのかも知れない。年齢《ねんれい》という要素については意見|抜《ぬ》きで。 「あくまで個人的に疑ってると言ってたけどね。君達は容疑者候補に挙げられてる」  容疑者候補、ねえ。意味|被《かぶ》ってる気がする。  やれやれ、と余裕《よゆう》ぶってみた。 「僕らみたいな善良で矮小《わいしょう》な小市民を疑うなんて、余程捜査《よほどそうさ》が行き詰《づ》まってるんですね」 「君が疑われる理由なんて幾《いく》らでもあるよ。過去に犯罪に巻き込まれた人物は、自身が影響《えいきょう》で行う可能性が増加する。精神科の先生と仲良しだ。人望がない。飼育《しいく》委員だからだ。一つ嘘《うそ》だけど」  本当に一つなのかそれ。というか、どうして真似《まね》出来るんだ。 「まあ、アタシ個人の見解では、御園《みその》は怪《あや》しまれても仕方ないかな」 「あんなに純粋《じゅんすい》で考えなしで幼稚《ようち》で逃《に》げ足が遅《おそ》いマユの何処《どこ》を疑うというんですか」 「貶《おとし》めることで擁護《ようご》してどうするの。それで今度、君らと個人的に話がしてみたいんだって」 「取調室でなんてオチじゃないですよね」 「留置場だったりして」  笑えない冗談《じょうだん》は、冗句《じょうく》じゃなくて事実を述べているだけだと思う。 「こっちとしては私的公的関係なく、お会いしたくないですね」  微妙《びみょう》に嘘だけど。 「それは君の自由だから、勿論《もちろん》断ればいいけど。なかなか面白い奴《やつ》だよ、少しだけ君に似てる」  そう言って、穏《おだ》やかに笑《え》む。  少しでも僕に似ている人か。  ……きっと性悪《しょうわる》なんだろうなあ。 「ただ違《ちが》うのは、君は単なる嘘つきだけど、あいつは嘘と真実を編み込んで喋《しゃべ》ることかな」 「ほほー」  賭《か》けてもいい、性悪だ。  最高潮のノイズとシャウトに乗じて椅子《いす》から腰《こし》を上げた。そこで、ふと感じた疑問を、オーディオを指さしながらぶつけてみた。 「苦情とかこないんですか、それ」  先生は「べつにー」と軽い否定をする。 「デスメタルお婆《ばあ》さんとかに大好評」  大好評なのはいいけど、デスが婆さんに付属するのは些《いささ》か問題な気もする。 「患者《かんじゃ》さんにリクエストされた曲をかけてるから、意外と好評なのよ。注文がない時はかけないか、アタシの趣味《しゅみ》に合わせるけど」 「そっすか。僕は聞かれたことないんですけどね、一度も。そろそろお暇《いとま》します。これからデートに行くんで」 「ふーん、いいねえ。アタシの休日と取り替《か》えない?」 「嫌《いや》です」  断固|拒否《きよひ》した。一日中、漫画喫茶《まんがきっさ》に入《い》り浸《びた》る生活は僕に馴染《なじ》まない。  普段《ふだん》より大きく頭を下げ、素早《すばや》く戻《もど》す。足を引っかけそうになりながら振《ふ》り返り、早足で入りロへ向かう。そして扉《とびら》に手をかけ、歩を休める。 「先生」 「んー?」 「僕は、人を殺したことがあるんです」  暫《しばら》く返事は訪《おとず》れなかった。声が届かなかったかも知れない。それならそれで大変結構。ドアノブを捻《ひね》り、扉を押した。  そして、半分|廊下《ろうか》に出たあたりで、 「ダウト、とだけ言っておく」  正解、とは言わずに部屋を後にした。  廊下の待合い椅子《いす》には、顔を酸欠状態の青色にして尚《なお》、診療《しんりょう》室から流れてくる音楽を鼻歌で演奏するデスメタル婆《ばあ》さんが鎮座《ちんざ》していた。亡霊《ぼうれい》と自己|紹介《しょうかい》されても受け入れてしまえそうだ。  そして、それら全《すべ》てを意に介《かい》さず、椅子の上で器用に丸まって眠《ねむ》るマユ。 「…………………………」  薬を受け取ってから、マユを背負ってマンションへ帰宅した。  そして彼女の傍《かたわ》らで、目覚めた時の為《ため》の嘘を思案し続けた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 九人目『モノオモイサツジン』 [#ここで字下げ終わり]  殺人は、健全に例《たと》えるなら遠足に似ている。旅行に置き換《か》えてもいい。とにかく、実行に移す前の、準備や予定をする時の方が心は揺《ゆ》れる。良かれ悪《わる》かれだ。だからこそ僕は事を行う以前、架空《かくう》の存在を用いて夢想する際には、自意識を細部まで行き渡《わた》らせるようにしている。そして実行の時は、ムイシキに身を委《ゆだ》ねている。その方が安定しているからだ。そう、安定。人が反復に近い行動様式を取る以上、それを求めるのは必然とも言える。特に、多大なリスクを伴《ともな》う行動の反復。例えば違法品《いほうひん》の購入《こうにゅう》。例えば万引き。例えば殺人。僕も例外ではない。安定を欲する。その為《ため》に、仲間を得たいと渇望《かつぼう》する。僕は仲間に飢《う》えている。呼吸、瞬《まばた》きの延長線上の殺傷|行為《こうい》が認めあえる仲間を。何年も、探し続けた。この片田舎《かたいなか》の町で。声を高らかに募《つの》ることも出来ず、選別もままならない人の世で。そして、当然ながら、そんな奴《やつ》は現れなかった。罪を問われない状況《じょうきょう》で拳銃《けんじゅう》を渡《わた》されたら憎《にく》い奴を殺すとか、そういう人材は募集していない。目の前に死刑《しけい》台が聳《そび》えようと殺人を厭《いと》わず、或《ある》いはどれだけ憎悪《ぞうお》に滾《たぎ》る仇《かたき》であっても気分次第《しだい》で見|逃《のが》すような、自身の内にある一定のルールを遵守《じゅうんしゅ》する人間。余分な感情を背負い込んだ人間。そんな人間と出会って、話し合い、或いは些細《ささい》なことから殺し合ったり、とにかく交流が生まれることを切望した。だから僕はここにきて、探し方を変更《へんこう》した。殺人を行ってみた。灯《あか》りに群がる蛾《が》のように、同類が引き寄せられることを期待して。結果は、報道機関にネタを提供する役割に成り下がっているのが現状だ。二足歩行の犬や浜辺に打ち上げられた鯨《くじら》と何ら変わりない。畜生《ちくしょう》と蔑《さげす》まれたら甘んじて享受《きょうじゅ》しよう。二足歩行だって実演するし、浜辺で砂のベッドに横たわってやる。しかし悲しいかな、この地域には海がない。川はやたらと多く流れているけど。閑話休題《かんわきゅうだい》。エロ雑誌《ざっし》を立ち読みしている隣《となり》の男がやたらとくすくす笑って気味が悪い。更《さら》に閑話休題。つまり僕は、この非生産的|行為《こうい》が、凄惨《せいさん》な景色《けしき》を背景に他者との繋《つな》がりを生産する成算に賭《か》けているのだ。期限は、どうだろう。行き詰《つ》まっている警察の捜査《そうさ》状況《じょうきょう》からすれば、三分勝負ならまだ一分も消化しきれていない程度に余裕《よゆう》はあると思う。さて、終了《しゅうりょう》までに素敵《すてき》な運命は僕に巡《めぐ》ってくるのだろうか。殺人を終えてからふらふらと訪《おとず》れたコンビニでそんなことを考えながら、立ち読みしていた雑誌を棚《たな》に戻《もど》して、入荷したての弁当類へ足を向けた。 [#改丁] 三章 『嘘と嘘』 [#ここから3字下げ] 「さむくなってきた」 「そうだね。外のきせつがかわってきてるのかな」 「ふゆになるの?」 「もう少しししたら、多分」 「クリスマスも、ここにいるの?」 「……うん」 「サンタさん、今年もきてくれるかな?」 「……ちょっとむずかしいかも」 「きてほしい」 「サンタさんに、なにをおねがいするの?」 「……いっぱいある。ぜんぶ、かなえてくれるかな?」 [#ここで字下げ終わり]  昔から。  昔から連綿《れんめん》と続いているからあってないぐらいに自覚が薄《うす》く削《そ》がれてしまったけれど。  予定調和だったんだ、僕以外の都合が混入することは。  悪くない三週間だった。断片的な出来事しか思い出せないような、普遍《ふへん》的な日常で構成された過去。誇《ほこ》れるほど素晴《すば》らしいことも、嘆《なげ》くほど悲愴《ひそう》な出来事も存在しない。  マユが僕を嘘《うそ》つき呼ばわりして、埋《う》め合わせという大義名分の下《もと》に、一週間丸々学校を休んでのデートを強要されたり、マユが惰眠《だみん》を貪《むさぼ》っている合聞をぬって診察《しんさつ》を受けに行き、先生と漫画《まんが》談義に花を咲かせて帰宅が遅《おく》れてマユの機嫌《きげん》を損《そこ》ねたり、朝方どうしても布団《ふとん》から脱《だっ》しようとしなかったマユを着替《きが》えさせて学校へ連れていこうとして、スカートだけ穿《は》かせた状態でマユが起床《きしょう》して誤解を招き、支離滅裂《しりめつれつ》な展開になって結局休んだり。  断片的にとか格好付けてほざきながら、細々とくだらないことを記憶《きおく》している自分に落胆《らくたん》を禁じ得ない。まあ仕方ない、せせこましいのは性分だ。  それから浩太《こうた》君達と戯《たわむ》れてみたり、菅原《すがはら》率いる剣道部が大会で好成績を収め、定期発行を無視して生徒会便りを大増刷したり、九人目の犠牲《ぎせい》者が出たりした、そんな日々の終わりに、  僕を呼ぶ電話の音が、主のいない部屋に鳴り響《ひび》いた。  代理として子機を取り、通話ボタンを押した。 「もしもし、御園《みその》ですけど」 「あ、どーもー。その声は御園マユちゃんじゃありませんね、待望の『みーさん』ですか?」 「……失礼ですけど、どちら様でしようか?」 「上社奈月《かみやしろなつき》という、警察のしがない歯車です。みーさんの大好きな恋日先生の大親友ですよ」  ああ、この人が噂《うわさ》の刑事さんね。……なるほど。 「で、みーさんでしょう?」 「たわば」 「やっぱり大嘘つきのみーさんですね、こんにちは。やっとお電話が繋《つな》がりました」 「バカにするでねぇ、圏外《けんがい》じゃねーべオラん家《ち》」 「いえいえ、素敵《すてき》な女の子に電話を切られていたんです数日前から」 「ああ、ワイフですねそれ。怪人《かいじん》からの電話は容赦《ようしゃ》なく切るように躾《しつ》けてますから」 「明日までに死んでくださいが奥様の決《き》め台詞《ぜりふ》ですか」 「いいえ、お前はもう死んでくださいです」 「礼儀《れいぎ》正しい奥様ですね、敬服に値《あたい》します。それでみーさん、私と浮気なんてどうです?」 「間に合ってます」 「人類の敵ですね、鶏糞《けいふん》に値《あたい》します。では三号さんに立候補です」 「永久欠番ですのでご遠慮《えんりょ》願います」 「ユニイクな方ですね、誰《だれ》に似たんでしょうか」 「お隣《となり》のお子さんに似てるって噂《うわさ》されてますよ」 「それは素敵《すてき》な昼メロですね。そろそろ承諾《しょうだく》しないと不敬罪で強制連行しますよ」 「嫌《いや》ですね上社《かみやしろ》さん、DNAの相違《そうい》があったとしても父をダディと認めますよ僕は」 「とうとう私を怒《おこ》らせてしまったようですね」 「とか言いながら笑いまくってますね」 「みーさんの女を寝取《ねと》ります」 「それは怖《こわ》い」 「具体的には、宅配屋でドッキリ作戦です。成功率は大リーガーばりです」 「では妻には敬遠の指示を出しましょう」 「つれないですね、みーさん。じゃあ後日、私からそちらへお伺《うかが》いしますね。マユちゃんとも機会を見てお話ししたいと思っていますので一挙両得、二兎狩《にとが》りです」 「……分かりました、上社さんの熱意に応《こた》えてお会いしましょう。ただし、妻には内緒《ないしょ》で」 「そう言ってバレなかった浮気はありませんよ」 「ところで上社さん、何処《どこ》かでお会いしたことありますか?」 「原始的なナンパ術ですね」 「いえいえ、いつぞや拝聴《はいちょう》した記憶《きおく》のある美声ですから」 「ああ、それは私も思ってました。初めて声を聴《き》いた時から好きだったの!」 「声に恋ですか、テレホンショッピングに気を付けてください」 「待ち合わせは何処にしましょうか」 「暗いところで」 「分かりました。ではでは」  通話を断《た》った。  二秒後にリコールされた。 「マユちゃんのお宅から最寄《もよ》りのデパートで、三階|喫茶店《きっさてん》に十一時、週末」 「……駅前のとこですね、分かりました。これにて御免《ごめん》」  子機を置いた。 「やれやれ」  来週から修学旅行だというのに、いつもこうだ。  僕が、物事を上手《うま》く運べたことなんて、一度もないんだ。  電話の後、和室の襖《ふすま》を開いた。部屋は秋と冬の境目を迎《むか》え、室内の温度も低下の一途《いっと》を辿《たど》っている。 「あ、おかえりなさい」 「……おかえり」  そしてその部屋には、当然のように二人が居座り、漫画《まんが》から目線を上げて僕に御挨拶《ごあいさつ》。脇《わき》には、先生から借りてきた漫画が積み上げられている。挨拶を返し、襖を閉じてから僕も腰《こし》を下ろした。  手近にあった漫画を一|冊《さつ》取り、適当なページを開く。それを一ページ程《ほど》読んでいる間に、外界の情報より、内面の思考を優先するようになっていた。平たく言うと物思いに耽《ふけ》った。  上社奈月《かみやしろなつき》。刑事。幼少期は探偵《たんてい》志望。嘘《うそ》と本気の境目があやふやな性格。先生の同級生。つまり今年で三十一|歳《さい》。その程度の情報しか手元にはない。後は、先生|曰《いわ》く『少しだけ君に似ている』。  まあ、月から地球を眺《なが》めても人類を見ることは出来ないから、似ているかどうかなんて正否を出すのは難しいものな。ただ先程のやり取りによる第一印象として、厄介《やっかい》な人だと確信した。  そんな素敵《すてき》な相手と、週末に喫茶店《きっさてん》で逢《あ》い引き。何処《どこ》をときめかせればいいのやら。 「おねえさんは寝《ね》てるんですか?」  浩太《こうた》君の声で、頭を切り換《か》える。漫画を両手で閉じてから答えた。 「ああ、担任に抗議《こうぎ》してる」  杏子《あんず》ちゃんも顔を上げ、首を傾《かし》げる。最近は、時折に無邪気《むじゃき》な一面も覗《のぞ》かせてくれる。 「修学旅行の宿で、僕と同じ部屋にするように主張してるんだ。無理だとは忠告したけど馬耳東風《ばじとうふう》だから、そのまま置いて帰ってきた」  僕が去ったことにも、話し合いという名のわがままに夢中で気に留めていなかった。 「はあ……。帰っちゃったんですか」  浩太君は意外そうな調子だった。 「なんか変かな?」 「うん。いっつも一緒《いっしょ》にいるから」  杏子ちゃんが答える。浩太君も頷《うなず》き、僕としては「そうなんだけどね」と言うほかない。 「甘やかしすぎるのは良くないかなって」  マユは少しワガママが過ぎる。三週間の暮らしで、そんな面が目立ち始めた。  例えば僕が彼女の意見を聞き入れなければむくれ、彼女以外の人と会話すれば二人きりになった途端激怒《とたんげきど》で心が尖《とが》る。  マユにとって僕は、隷属《れいそく》の位置づけであることが最も望ましいということ。 「……まあ、いつまでも一緒《いっしょ》ってわけにもいかないしね。そのうち警察の御用になるし」  僕は犯罪者であり、いずれ裁《さば》きを受けることは確定しているのだから、マユには独力で生きることを学び直してもらわないといけない。  それは技能でも知恵でもなく、ただ享受《きょうじゅ》する覚悟《かくご》を養うこと。 「………………」  マユには、それが出来るほど心があるのかな。  それはそれとして、警察という単語に対して、浩太《こうた》君は心なしか申し訳なさそうに肩《かた》を落としている。杏子《あんず》ちゃんは所在なく視線を彷裡《さまよ》わせている。どうやら、この心根《こころね》の優《やさ》しい子達はお門違《かどちが》いの責任を感じているらしい。 「君達が気にすることじゃないよ。元々は……マユが、悪いんだろうなぁやっぱり」  そういえば、この誘拐《ゆうかい》の意義は何だろう。この疑問が脳を覆《おお》うのは常習的だけど、未《いま》だに本人に尋《たず》ね忘れている。保存性と会話内での優先度が低すぎる故《ゆえ》の喜劇だ。 「というか、君達はさあ……」  言葉|尻《じり》を濁《にご》す。後頭部を掻《か》いて自制した。  三週間だ。単純に、僕とマユが登校して家を空ける十五日間、彼らは自身の境遇を叫《さけ》ぶ機会があった。このマンションの設計思想を聞いてみれば、確かに防音対策は成されている。けど、マユが奇声《きせい》をあげる寝室《しんしつ》とは違《ちが》い、和室の位置はマンションの隣室《りんしつ》と壁《かべ》一つ隔《へだ》てているだけだ。つまり、この状況《じょうきょう》を打破することなど、指一本動かさずに成し遂《と》げることが出来たのだ。柱と彼らの足首を繋《つな》ぐ、金属の枷《かせ》は行動を遮《さえぎ》る職務を遂行《すいこう》せずただのファッションに成り、下がっているのか上がっているのか。  そんな彼らは、今も大人しく現状に甘んじている。  僕自身、彼らがそんな行動に出ないと根拠《こんきょ》なく判断して、対策も施《ほどこ》さなかったけれど。  理解に苦しむ誘拐事件だ。いや、誘拐犯の頭の中なんて、理解の余地があるはずもないか。 「あの、君達はなんでしょうか?」  浩太君の問いかけに対して適当に手を振《ふ》って、「何でもないよ」と打ち切った。 「とにかく、犯罪は裁かれるもの。それは絶対だ」  犯罪と認められたら、の話だけど。  認めさせなければいい、誰《だれ》にも。  それが出来なければ、公的に、或《ある》いは私憤《しふん》の下《もと》に、罰《ばっ》せられる。  丁度《ちょうど》、八年前の時のように。 「…………………………」  大雑把《おおざっぱ》に計算して七万時間以上は経過しているのに、監禁《かんきん》生活の端《はし》から端まで、一切《いっさい》の記憶《きおく》に劣化《れっか》はない。  あの時より酷《ひど》い状況はきっと幾《いく》らでも存在するだろうけど、あの時より惨《みじ》めな気分は生涯《しょうがい》味わえない。  ああ、トラウマ除去装置を取りに宇宙の彼方へでも飛び立ちたい。 「ねぇねぇ」  杏子《あんず》ちゃんが、友達に接するように声をかけてきた。トラウマを宇宙の彼方へ飛ばした方が合理的なことに気付いてから、杏子ちゃんと向き合う。 「あのおねえちゃんを一人にしていいの?」  今は穴も塞《ふさ》がった、僕の中指の付け根を指さしてきた。 「いいとは言い難《がた》い」  意見を聞き入れられない腹いせに、上沼《かみぬま》先生に暴行を加える可能性。  マンションのエレベーターの階数を押す際に危惧《きぐ》した。上沼先生は生徒の進路にも、イジメ問題にも事なかれ主義を貫《つらぬ》く駄目《だめ》教師だけど、自身が傷害事件の被害《ひがい》者になれば、声を張り上げて訴《うった》えるだろう。そういう人だ。まあ二、三発なら殴《なぐ》っても合法だろうと錯覚《さっかく》するぐらい、人の神経を逆撫《さかな》でする大人ということ。 「でも大丈夫《だいじょうぶ》だよ。ある程度は、ね」  たとえ暴力|沙汰《ざた》を引き起こそうと、彼女が精神を病《や》んでいるという事実は武器になる。入院覚悟《かくご》だけど、最悪、それも厭《いと》わない。マユを止める人問が側《そば》にいれば、独《ひと》りで生きることが出来なくても何とかなる。  杏子ちゃんが、人差し指をピッと立てた。 「後ね、もう一個」 「お、名探偵《めいたんてい》風味」  僕の茶化しに疑問|符《ふ》を発しながらも、杏子ちゃんは言った。 「昨日の夜、何処《どこ》に行ってたの?」  眼球が内側より圧迫《あっぱく》された。一瞬《いっしゅん》、視界が濃霧《のうむ》に包まれる。 「それから、何日か前も外に出てったって、こーたが言ってた」  ぎぎ、と老朽《ろうきゅう》化の進んだ監視《かんし》カメラのようにぎこちなく首を振《ふ》った。浩太《こうた》君は不可思議ですといった様子に眉根《まゆね》を寄せている。 「ああ、ちょっと近所のコンビニへ」  虫|除《よ》けに扇風機《せんぷうき》が回っているコンビニへ、片道三十分かけて。 「コンビニでね、夜食の弁当を買って食べてた、育ち盛《ざか》りだから三十分に一回は食事するんだ」  更《さら》にごまかすために、即興《そっきょう》で思いついた話を口にした。 「バカと言った奴《やつ》がバカである。これを正しいとしよう。けどそれは、バカと言われた奴がバカではないということを証明してはいないんだ。つまり、バカと言われたバカがバカとバカに言い返すという、バカ祭りの状況《じょうきょう》を形作っているわけだ」  舌を噛《か》みそうになりながらも淀《よど》みなく言い終えた。脈絡《みゃくらく》のないバカ談義によって、二人の団栗眼《どんぐりまなこ》を毬栗眼《いがぐりまなこ》にして怪訝《けげん》な視線を尚更《なおさら》、頂戴《ちょうだい》した。胡散臭《うさんくさ》さを助長してどうする。 「……あー、旅行の準備しないとね」  そそくさと席を立とうとした。が、杏子《あんず》ちゃんが飛びかかるように身体《からだ》を伸《の》ばし、制服の裾《すそ》を掴《つか》んできた。 「あやしい」  そう言って、悪戯《いたずら》っぽく笑う。年相応の笑顔《えがお》は、マユに通ずる雰囲気《ふんいき》がある。 「全然|怪《あや》しくないっす。妖《あや》しくもねえっす。僕はね、自治会の会長の孫の同級生の部活仲間の友達だから、夜な夜な殺人犯を追いつめるべく巡回《じゅんかい》に当たってたんだ、嘘《うそ》じゃない」 「……おにいさんの嘘って分かりやすいですね」  誘拐《ゆうかい》犯の片割れとじゃれ合う杏子ちゃんを、一層伸びた髪《かみ》の奥から、微笑《ほほえ》ましそうに観賞する浩太《こうた》君。大切な妹に、僕が悪意を伴《ともな》う行為《こうい》に及《およ》ぶとは微塵《みじん》も考えが及《およ》んでいないのだろうか。心に沈着《ちんちゃく》していた毒気が抜《ぬ》かれそうだった。  無垢《むく》な信頼《しんらい》は、日焼けしすぎた肌《はだ》に触《ム》れられるかのように心を苛《さいな》む。 「ねぇ、名前は?」  杏子ちゃんが、興味|津々《しんしん》とはまるで縁《えん》のない素面《すめん》でQしてきた。 「あー……僕の?」 「他《ほか》に誰《だれ》がいるのよ」 「誰かいないかなー……」  一応、淡《あわ》い期待に縋《すが》って探してみた。体内の寄生虫が『名のらしていただこう』とか紳士《しんし》に助け船を出してくれたりしないかな。 「名前言うだけなのに、なにしてんの?」  Aする人が渋《しぶ》っているので、杏子ちゃんが急《せ》かしてくる。『ひ・み・つ』とか、殴《なぐ》られそうだったので、仕方なく正直者になってみた。 「あまり好きじゃないんだ、名前。似つかわしくないし、呼ぶのも呼ばれるのも恥《は》ずかしいんだ。だからあんまり教えたくない、ごめんね」  毎日、湯で洗浄《せんじょう》した為《ため》か多少はべとつきの減退した髪《かみ》に手の平を載《の》せる。浩太君が「あんず」と呼びかけ、杏子ちゃんは「分かってる」と煙《けむ》ったそうに返す。「別に、すごく知りたかったわけじゃないし」と未練なく引き下がってくれたのでありがたかった。  一息つく。後ろ手を突《つ》き、天井《てんじょう》を見上げた。 「……旅行|鞄《かばん》でも引っ張り出して、準備しないと」  そういえば、旅行中は、この子達の処置をどうするか。足|枷《かせ》でも外してしまうか。食料さえ買い込んでおけば、来客には出ないように忠告して好き勝手暮らして……いやだから、ちょっと待て。もう僕は認めてるのか。それでいいのか。  既《すで》に誘拐ではなくホームステイになっている、と。 「……うーむ」  全《すべ》てが思惑《おもわく》から外れる。それはそれで愉快《ゆかい》なんだけどなあ。  それから三十分ぐらい後に、家主の帰宅に伴《ともな》う効果音が相次いで鳴り出した。  丁度僕が、杏子《あんず》ちゃんと頬《ほお》を掴《つか》んで引っ張り合いながら、深遠な哲理《てつり》について熟慮《じゅくりょ》していた頃。  ドスドスと、床《ゆか》を踏《ふ》み抜《ぬ》く気概《きがい》さえ伝わってくる足音を引っ提《さ》げて、僕の背中まで到着《とうちゃく》した。 「おひゃえり、まーひゃん」  振《ふ》り向くと、少しは零《こぼ》れろよと思うぐらいマユは笑っていない。  子供みたいに頬《ほお》を膨《ふく》らませることもなく、眠《ねむ》っている時と同様の彫刻面《ちょうこくづら》だった。  マユの脳天気な声は室内に響《ひび》かず、僕は首根っこを掴《つか》まれる。そしてそのまま頬を掴む杏子ちゃんごと引っ張られた。不意の行動に反応しきれず、敷居《しきい》で頭をしたたかに打つ。ついでに杏子ちゃんも僕の胴体《どうたい》目がけて倒《たお》れ込んだ。肘《ひじ》が鳩尾《みぞおち》にめり込み、空気が肺から強制|撒去《てっきょ》される。 「あ、だ、大丈夫《だいじょうぶ》?」  杏子ちゃんが頬から手を離《はな》し、心配げに気遣《きづか》ってくれる。それに対し親指を立てて無事を示そうとしたら人差し指を起立させてしまい、全く大丈夫じゃない状態を顕示《けんじ》してしまった。不本意ながら口頭で「大丈夫」と告げた。 「ぐ、自分で歩くから離してけれ」  冗談《じょうだん》めいた懇願《こんがん》は無視されて、そのまま屋内引きずりの刑《けい》。段差で尻《しり》を打ち、襖《ふすま》に肘《ひじ》を打ち付けた。部屋を去り際《ぎわ》、妙《みょう》に名残惜《なごりお》しそうにしている杏子ちゃんと目線がかち合ったけど、かける言葉は僕の語彙《ごい》になかった。  リビングのテーブル付近で解放される。襟元《えりもと》を正しながら、仏頂面《ぶっちょうづら》のマユを座らせた。 「なに怒《おこ》ってるの」  分かりきっているのに、愚鈍《ぐどん》を装《よそお》ってみた。対するマユの返事はこうだった。 「何で駄目《だめ》なのか、全然分かんない」  言い終えると同時に鞄《かばん》を放《ほう》り投げた。鞄は丁度、電話の子機が置かれた棚《たな》に激突《げきとつ》し、その衝撃《しょうげき》で隣《となり》に飾《かざ》ってあった硝子《がらす》の球状の置物が飛び降り自壊《じかい》し、見事に半壊した。 「そりゃ、班《はん》分けは一ヶ月も前に決まってたからね」  憤《いきどお》るマユと正面で向き合う。 「担任を叩《たた》いたりはしなかった?」 「一ヶ月……。そうだよ、みーくんがもっと早くわたしのとこに来てくれてたら良かったんだよ!」  質問を無視して、理不尽《りふじん》な怒《いか》りを撒《ま》き散らしてきた。  ……反論する気にもなれない。 「ごめん」と、頭を下げた。頭なんて、下げる考えるぶつける食べさせる程度にしか使用出来る用途《ようと》がない。機会があれば使っておくに限る。マユがそんなことで得心するはずもないけど。  ただこれ以上、不毛な話題を続けると気が滅入《めい》りそうなので、間が悪いことを承知で話を切り換《か》えてみる。 「明日は出かけてくるよ」 「わたしも行く」  理由も、場所も、目的も問わず、ただ僕に付いてくる。  そんな行動に、どんな価値があるというのか。 「一人で行く場所なんだ、まーちゃんは連れていけない」  針の視線が僕を穿《うが》つ。けれどマユを連れていくことは不可能だ。詳細《しょうさい》を包み隠《かく》さず報告することも、平和な毎日の為《ため》に出来るはずがない。警察の人と会うことを告げれば不安を煽《あお》るだけだし、年上のお姉さんと逢瀬《おうせ》を楽しんでくるなんて知られたらこの場で晒《さら》し首だ。 「一度、叔父《おじ》さんの家へ帰るんだ。それがまーちゃんと一緒《いっしょ》に暮らす為の約束だからね。夜までには戻《もど》ってくるよ」  一つ嘘《うそ》だけど。 「なんでわたしが一緒に行くのは駄目《だめ》なの?」  ぶすう、と頬《ほお》をむくれさせる。僅《わず》かに怒《いか》りを軟化《なんか》させた証《あかし》だ。 「喧嘩《けんか》になるから。叔母《おば》さんは僕がここで暮らしていくことに反対してるから。叔父さんも、表面上は理解者ぶってるけど本当は反対派だし」  これは本当だ。未来視の能力が不要なほど、確定|事項《じこう》だ。生涯《しょうがい》対面させたくない。  マユを膝元《ひざもと》に抱《だ》き寄せる。抵抗《ていこう》なく腕《うで》の中に収まったマユの髪《かみ》を慈《いつく》しむ。そして一本の茶髪《ちゃぱつ》を指で摘《つま》み、弄《もてあそ》ぶ。 「修学旅行さ、同じ部屋には泊《と》まれないけど、一緒《いっしょ》に遊んだりは出来るから」  他《ほか》に行動を共にするような人もいないし。ふはははは。  ……笑えねぇって。 「一緒に暮らしてるんだから、我慢《がまん》、出来ない?」  背中を軽く、赤ん坊をあやすように叩《たた》く。冬服の出番が訪《おとず》れてようやく、長|袖《そで》の服装でも汗《あせ》をかかなくなったマユの匂《にお》いを鼻先で嗅《か》ぐ。お香《こう》代わりに焚《た》いても問題ない香《かお》りだ。 「……うん。我慢してあげる」  ワガママ少女の最大限の譲歩《じょうほ》だった。  ぎゅっと、僕の肩《かた》に顔を埋《うず》め、肩胛骨《けんこうこつ》あたりに手を回してくる。  そうして、暫《しばら》く無言で抱《だ》き合っていた。  十分ぐらいは、そのままだった。 「……よし、じゃあ掃除《そうじ》でもしようか」  美化委員の意識が硝子《がらす》の後始末を主張していた。マユを床《ゆか》に置いて立ち上がろうとすると、 「わたしがやる」 「いや、危ないから僕がやるよ」 「いいの! みーくんは寝《ね》てなさい!」  綺麗《きれい》好きなのに掃除《そうじ》と整頓《せいとん》を嫌《きら》うマユお嬢様《じようさま》が意気|揚々《ようよう》と、キッチンへ小走りに向かっていった。途中《とちゅう》で転《こ》けたか、壁《かべ》に肘《ひじ》でも打ったか鈍《にぶ》い音がして、その数秒後には舞《ま》い戻《もど》ってきた。  手には、竹の長箸《ながばし》と皿。その箸で、ガラスの破片を拾い始めた。  遠近感のないマユは、大きめの破片を拾い上げるにも二度手間を要していた。 「手伝おうか?」 「にゃー!」  威嚇《いかく》されたので、直接拾わないように、とだけ注意をしておいた。  そして、その場で大の字に寝転《ねころ》んだ。  木造の床《ゆか》は硬《かた》く、冷気を帯びていた。  妙に心地良い。  安っぽい電灯《でんとう》の取り付けられた天井《てんじょう》を眺《なが》めながら、思いは巡《めぐ》った。  嘘《うそ》をついたことを考え、  上社奈月《かみやしろなつき》との邂逅《かいこう》を夢想し、  殺人の犠牲《ぎせい》者について想《おも》うところを探し、  全《すべ》てを追い出すように、瞼《まぶた》を下ろした。  背中に残留していたマユの手の温《ゐく》もりは、床の冷温に飲み込まれた。  そして、日曜日。  本日は豪雨《ごうう》なり。  見事な土砂降《どしゃぶ》りだった。  昼過ぎからは晴れ模様になると予報していたが、予報者本人も懐疑《かいぎ》的な物腰《ものこし》だった。 「ねぇ、今日行かなくても、いいじゃん」  珍《めずら》しく九時半前に早起きしたマユは、窓からの景色《けしき》を一瞥《いちべつ》して、そう提案した。 「……いや、旅行に行く前に一回ぐらいはね」  やんわりと断り、身支度《みじたく》を整えた。  マユは、神妙《しんみょう》な表情で佇《たたず》んでいた。  指定されたデパートまで徒歩《とほ》で四十分強の移動時間が見込まれる為《ため》に、十時を回り始めた頃《ころ》にはマンションを出る必要があった。マユから黒色の折《お》り畳《たた》み傘《がさ》を借り、玄関《げんかん》へ向かった。 「あ、ちょっと待って」  汚《よご》れの目立つ靴《くつ》を履《は》こうとした僕に、マユが待ったをかけてきた。  そして握《にぎ》っていた口紅を唇《くちびる》に塗《ぬ》りたくる。  首を傾《かし》げる僕を余所《よそ》に、ルージュを塗り終えたマユが頬《ほお》に吸い付いてきた。  ぎゅうう、と皮膚《ひふ》が剥《は》がれそうなぐらい。 「ちょ、痛いって」  マユが唇を離《はな》す。そして吸い付いた部分を一瞥《いちべつ》し、満足げに微笑《ほほえ》む。 「拭《ふ》いちゃ駄目《だめ》だよ」 「……涎《よだれ》も?」「だーめ」  僕の手を払《はら》い、手鏡を向けた。  マユの唇よりやや厚めのキスマークが、頬にペイントされていた。  ついでに、頬肉を伝って顎先《あごさき》に届いた涎も鏡は映している。 「……行ってきます」 「はいはーい」  世間に恥《はじ》を晒《さら》すことを強要されながら、部屋を出た。  駅前にあるデパートには、十時四十五分過ぎに到着した。  道路は水位が測れるほどの水|溜《た》まりを形成し、一歩|踏《ふ》み出した時点で靴下の爪先《つまさき》まで浸水《しんすい》していた。  しかしデパートといっても、田舎《いなか》の臭《にお》いが染《し》みついた建造物である。都会のビルが横に並べば苛《いじ》められっ子のように萎縮《いしゅく》してしまう程度の全長でしかない。  そんなデパートではあるけど、設置された雨避《あまよ》けの屋根の下には老若男女《ろうにゃくなんにょ》間わず人がわらわらと棲息《せいそく》し、集《たか》っていることに驚《おどろ》いた。  傘《かさ》の水切りを行ってから閉じて畳《たた》み、自動ドアをくぐり抜《ぬ》ける。陽気な楽曲に、天候と断絶した照明の輝《かがや》き、それと甘ったるい匂《にお》いが出迎《でむか》えてくれた。  入り口で傘にビニール袋を被《かぶ》せて、それから案内が記されたボードの前に立った。周囲を見|渡《わた》す。そこで、甘い匂いの発生源を知った。小麦または他《ほか》のでんぷんを水で練ってイーストを加えて醗酵《はっこう》させて工夫《くふう》をこらして焼いた食料品を商品として販売《はんばい》する店、三文字に簡略化すればパン屋があった。どうやら、一階に食料品の売り場が設置されているらしい。  そして、そのパン屋にいる奇妙《きみよう》な客に、視線が固定された。  黙々《もくもく》と試食をする、人目を惹《ひ》くか退《ひ》く、どちらかに確実に追い込む格好の女性。  白黒の線が合計五本程度|横縞《よこじま》に入ったボーダーの長|袖《そで》シャツ。下も同様のデザインのスカー。シャツのサイズがかなり大きく、右の肩がはだけて下着の紐《ひも》がチラっている。それに加えて注視を促《うなが》す、白にも取れる薄《うす》い金髪《きんぱつ》は後頭部に、時代|錯誤《さくご》にかんざしで纏《まと》められていた。  その女性はホウレン草を練り込んだ緑色のパンがお気に召《め》しているらしい。決してトレイに載《の》せてレジで金銭を消費することなく、試食用の一ロパンを次々に消失させていく。その勢いは、商品を誤って口に入れても、誰《だれ》も異議《いぎ》を挟《はさ》むことが出来ないほどだった。  おろおろと周囲の善意者に助けを請《こ》う店員に同情しながら目を逸《そ》らそうとした刹那《せつな》、  ぐわ、とその女性が僕の方へ振り向いた。  膨《ふく》らんでいた頬《ほお》の中身を胃に一方通行させて、シェイプアップを図った。  その人は、立てかけてあった黄色の傘《かさ》を掴《つか》み、ハンドバッグを振って軽い足取りで接近してくる。青い運動|靴《ぐつ》は、雨中間の移動による湿《しめ》りを苦にせず、床《ゆか》との摩擦《まさつ》音も一切《いっさい》立てない。 「あ、どうも。上社奈月《かみやしろなつき》です」  僕の前に立ち、柔和《にゅうわ》な笑顔《えがお》で頭を下げてきた。みーさんの容姿は調査《ちょうさ》済みらしい。当然か。 「あ、どうもみーです」  囚人《しゅうじん》服に似たお召《め》し物を着用している刑事さんに、とにかく挨拶《あいさつ》を返した。  そして不躾《ぶしつけ》にその容姿を観賞する。  僕の待ち人は格好も異質だけど、何より異様なのは顔立ちだった。  小鼻とか、目が細く、線になって光沢《こうたく》が稀薄《きはく》とか、そういう細々としたことより、だ。  若すぎる。  どう贔屓《ひいき》目を駆使《くし》しても僕らと同年代にしか見えない。化粧魔術《けしょうまじゅつ》か、恋日《こいび》先生が留年の達人か、特殊《とくしゅ》な呼吸法による細胞《さいぼう》の活性化か。 「顔、何か足りないものでもあります?」  目にかかる前髪《まえがみ》を直しながら、奈月さんが試《ため》すように問いかけてきた。 「そうですね……芸術性が足りませんね。もっとこう、アバンギャルドな要素が欲しい」 「アーティストな意見ですね。流石《さすが》、恥《は》ずかしげもなく頬にキスマーク付けて歩ける人種さんです」 「ああこれですか、職業病です」  奈月さんの視線から守るように、頬に指先を触《ふ》れさせた。義理も人情もからっきしの三級品である僕が、それを消去するという行動には踏《ふ》み切らなかった。理由を聞かれても、そんなものはない。強《し》いて挙げるなら、なんちゃらうえおってやつだ。嘘《うそ》だけど。 「刑事さんこそ、試食どころか商品の棚《たな》にあるパンを無銭飲食するなんて、職権を勘違《かんちが》いしているとしか思えない蛮勇《ばんゆう》でしたよ」  奈月さんの笑いは崩《くず》れない。悲しそうに、目を伏《ふ》せがちに笑う。 「今朝はみーさんが来てくれるか心配で心配で、ご飯が喉《のど》を通らなかったんですよ」 「それでパン食ですか、合理的ですね」 「あら、お上手ですね」  うふふふふ、と某《ぼう》国民的アニメの主婦が番組の最後に用いる笑いを浮かべた。今にも順序を無視してジャンケンポンとかやり始めそうだ。  話を中断して、奈月《なつき》さんと連れ添《そ》い、パン売り場からの恨《うら》みがましい視線は無視してエスカレーターへ。恥《はじ》かきついでに告白すればこのデパート内は初見だったので、奈月さんの自信に溢《あふ》れた足取りに行き先の舵取《かじと》りは一任した。  特に言葉を交《か》わさず三階に到着《とうちゃく》し、待ち合わせ場所に指定した喫茶《きっさ》店へ並んで入店した。白を基調とした内装は、窓から覗《のぞ》ける空模様と相まって、モノクロの世界観を演出していた。 「本当に喫茶店なんかあったんですね」  さらりと、自身の無計画性を漏《も》らした奈月さん。天然なのか、冗談《じょうだん》なのか判別しづらい。  傘《かさ》を置き場に差してから、奥の席へ向かう。僕もそれに続き、焦《こ》げ茶色の椅子《いす》を引いて、腰《こし》を下ろした。 「こういう休日も悪くないですよね。同級生が無駄《むだ》に尊大で熱血な部長と共に塩とか精製出来そうなぐらい汗水垂《あせみずた》らして部活動してる一方で綺麗《きれい》な女性とデートなんて」  勝ったぞ金子《かねこ》。ああでもあいつ、菅原《すがわら》達と一緒《いっしょ》に部活勧誘《かんゆう》する際に、更衣《こうい》室が覗《のぞ》けるとかいう惹句《じやつく》で新入生を釣《つ》ってたな。それが本当なら、この綺麗な年上か怪《あや》しいお姉さんとデートしても、役得があるとは考え辛《づら》いから痛み分けかも。 「あらあら、私にそんな甘言を口にしていると、恋日《こいび》が怒《おこ》りますよ」 「先生が?」  僕の疑問と奈月さんの返答がキャッチボールし終える前に、水とお絞《しぼ》りを店員が運んできた。僕の頬《ほお》に業務上の過程で付着した唇《くちびる》型の口紅を微妙《びみょう》な表情で一瞥《いちべつ》しながらも、伝票を構えるまでには営業用スマイルを浮かべる職業意識の高さに好感を覚えた。 「僕はココアを。上社《かみやしろ》さんは、」 「いえいえ、脳内表記と同じ馴《な》れ馴れしい呼び方で結構ですよ」 「てはお言葉に甘えて。ご注文はどうしますジェロニモさん」  ジェロニモさんは上品に口元を手で覆《おお》う。 「カツカレー一人前お願いします」  あれ? パン屋で暴食してた人といつ入れ替《か》わったんだ?  店員は笑顔《えがお》を崩《くず》さずに注文を取り、厨房《ちゅうぼう》へ去っていった。 「ところで先生がどうかしたんですか?」  奈月さんは、控《ひか》えめな笑顔を形作る。 「ああ、嫉妬《しっと》しますよという話です。あいつはみーさんのことが昔から大のお気に入りですからね。懐《なつ》かしき恋日の初恋は高校三年生、相手は中学生でした」 「小学生じゃなくてほっと一安心ですよ」 「けど凄《すご》かったのは、もう一人その子が好きな高校生がいて三角関係を形成していたことでしょうか。愉快《ゆかい》な学校生活でした」  愉快というより奇怪《きかい》だ。  奈月《なつき》さんは水を一息で飲み干《ほ》し、口元をお絞《しぼ》りで拭《ぬぐ》う。 「みーさんと私は若い者同士です。それなら、すべきことは一つです」 「その通りですね」  三十代の女性の日本語は少々理解不能だったけど、知ったかぶって同意してみた。 「みーさんのご趣味《しゅみ》は?」 「恋の監視《かんし》カメラを少々」 「まあ、奥ゆかしい方ですね」  上品に微笑《ほほえ》む奈月さん。 「それと、深夜|俳徊《はいかい》ですか?」  微笑みを崩《くず》さず、奈月さんは余裕《よゆう》のある態度で発言した。口ほどに物を言うはずの眼球は、瞼《まぶた》で覆《おお》われて窺《うかが》い知ることを防いでいる。 「田舎《いなか》のヤンキーですからね」  適当に答えた。  その瞬間《しゅんかん》、言質《げんち》を取ったと言わんばかりに、勝ち誇《ほこ》った人差し指を突《つ》きつけられた。 「異議あり、ですよ。ここは法廷《ほうてい》じゃないので、証拠《しょうこ》はいりませんね。みーさん、嘘《うそ》はいけません」  さてそれは、局所的か広義的、どちらで受け取ればいいんだろう。  思索《しさく》に耽《ふけ》りたい僕の意識を引きずり出すような、奈月さんの言葉。 「みーさんは田舎のチンピラです」 「……流石《さすが》刑事さん、よくご存じで」  参りました、と手を軽く上げて降参のポーズを取った。 「ではペナルティとして、本当の理由を話していただけますか?」  本当の理由ときたか。  水の入ったグラスを取り、口をつけながら、外の景色《けしき》を横目で眺《なが》めた。  僕が真偽《しんぎ》どちらを語ったところで、この人は信用するわけもない。  何せ、僕を殺人犯と疑っているような脳味噌《のうみそ》の保有者だ。  この人が欲しているのは、真相の証言ではなく、虚言《きょげん》に生まれる挙動だ。 「分かりました。奈月さんにだけお話ししましょう」 「ジェロニモじゃなかったんですか?」  そう言いながらバッグからハッカパイプを取り出し、吸い始めた。  鳥肌《とりはだ》が立つほど、僕にとって不快な臭《にお》いが漂《ただよ》う。 「あ、ハッカお嫌《きら》いなんですよね」 「ええとっても」 「ではしまいますね」とご丁寧《ていねい》に断りを入れて撤去《てっきょ》する。  僕のどうでもいいことまで筒抜《つつぬ》けですよ、という遠回しな牽制《けんせい》だろうか。  臭《にお》いが霧散《むさん》するまで待ってから、口火を切った。 「深夜に俳徊《はいかい》する理由は、唯《ただ》一つ。殺人|鬼《き》を捕《つか》まえる為《ため》です」 「あらあら、みーさんは正義の味方だったんですか」 「ええその通りです。週に五回は引っ越《こ》し野郎《やろう》となって社会|貢献《こうけん》していますよ」  不毛な切り返しを続行する。この手の人と生真面目《きまじめ》に対話するなんて愚行《ぐこう》は犯さない。 「かけられた嫌疑《けんぎ》は自らの手で晴らすのが物語の主人公です」  主人公じゃないけどな。  奈月《なつき》さんの睫毛《まつげ》が、微量《びりょう》、震《ふる》えた。 「嫌疑?」 「奈月さん……失礼、ジェロニモさんが僕に向けている感情ですよ」  奈月さんの眉間《みけん》に皺《しわ》が寄り、それでも笑《え》む。笑顔以外、表情パターンを用意していないらしい。喜怒哀楽《きどあいらく》を笑顔だけで表そうとするなら、顔面が年中通して筋肉痛になりそうだな。 「私が、ですか……あ、嫌《きら》ってはいませんので、疑惑《ぎわく》にしておきましょう」 「そりゃどうも。僕も零号《ぜろごう》さんにお迎《むか》えしたい程度の感慨《かんがい》は抱《いだ》いていますよ」 「感|極《きわ》まる想《おも》いをありがとうございます。それにしても、疑惑、ですか。なんのことでしょうねぇ……」  言葉|尻《じり》を濁《にご》して頬《ほお》に手を這《は》わせ、あどけなく首を傾《かし》げる。  疑惑じゃなくて確信ですよ、と心中で呟《つぶや》いていそうだなんてのは邪推《じゃすい》というものか。 「分からない、ということにしておきましょうか」  椅子《いす》に座り直し、背もたれに自重を預《あず》ける。真っ正面の奈月さんは、線目で僕を観察していた。それと見つめ合う形になる。石にでもならないかなーと、念じながら凝視《ぎょうし》してみた。 「……あらら、いくらみーさんが田舎《いなか》の穀潰《ごくつぶ》しでも、逢瀬《おうせ》の相手にガン垂《た》れるなんて……」 「ん、ああすいません。前髪《まえがみ》の生《は》え際《ぎわ》を見ていたらつい熱中してしまって……」  奈月さんはいえいえ、と首を振《ふ》り、「それも仕方ありませんね」と前口上を置いてから、 「警察をお嫌いなのも重々承知しています。なにせ、八年前の事件も結局、警察は捜索《そうさく》に行き詰《づ》まり、みーさんが解決なさったようなものですから」  胃の中で何かが暴れた。  コップを取り、唇《くちびる》に水をつけて暴徒|鎮圧《ちんあつ》を試みる。  八年前ね。  そこから掘《ほ》り出し始める気か。 「みーさんでしたよね? 警察に電話をなさったのは」 「そうでしたか? 時報にかけ間違《まちが》えた記憶《きおく》しかありませんね」  僕の台詞《せりふ》など雨音より気に留めず奈月さんが続けた。 「みーさんは勇敢《ゆうかん》でした。死体と怪我《けが》人が転がる中、冷静に逃《に》げ出して通報したんですから。あ、そういえばその頃《ころ》の記憶《きおく》があやふやだと証言していましたけど……少しぐらいは整理出来ましたか?」 「整理しようにも、既《すで》に消失した記憶のページもあるみたいで、復元は不可能ですよ」 「誰《だれ》がそこで殺害を行ったか、思い出せませんか?」 「ええ、さっぱり。自責の念に駆《か》られて自害したなんて美しい理由じゃないでしょうか」  嘘《うそ》だけど。そんな殊勝《しゅしょう》な行いと縁《えん》のない連中だってことは身に染みて理解している。 「そうですか……。そうですね、無理に思い出させるのはよろしくありません。御園《みその》マユちゃんが悪い前例です」  痛ましさを強調する声調で演技しながら、また嫌味《いやみ》にも程《ほど》がある名詞を挙げてきた。  ただ、別段に反応しなかったら、奈月《なつき》さんもそれ以上マユについては言及せず流した。 「そういえば、先程《さきほど》の殺人犯についてですけど」  パッと標準の笑顔《えがお》に舞《ま》い戻《もど》り、奈月さんは断言する。 「犯人は高校生です」  学生じゃなくて高校生ときたか。 「どんな根拠《こんきょ》に基づいてそれを?」 「そうですね……。まず、学生に括《くく》ったのは、定番の時間帯ですよ」 「ベタですね」 「九件の事件はいずれも、平日の深夜か休日の朝方、昼間、そして休日の夜です。最も殺害が行われる頻度《ひんど》の高い時間帯は休日の昼過ぎあたりですけど…… 分かり易《やす》すぎますね」 「学生を装《よそお》った無職のおにいさんおねえさんという線は?」  薄目《うすめ》を開け、肩《かた》を小刻みに揺《ゆ》らしてくる。人形の仕草だった。 「そうですね、それも疑うべきでしょう。けれど、そこまで思慮《しりょ》深い犯人なんでしょうか。何件も連続して学生を装って、警戒《けいかい》が厳しくなってもそれを変えず……装うことを考えるなら、継続《けいぞく》する際のデメリットにも思いが行き届いておかしくないはずですけど」 「それもそうですね」  どちらに同意しているかは自分でも不明瞭《ふめいりょう》だ。 「死体|損壊《そんかい》の頻度から、犯人に猟奇《りょうき》殺人の傾向《けいこう》があるのは明白です。ただ、全く解体が行われなかった被害《ひがい》者もいます。いい加減な性格なんでしょうか、犯人」 「さあ、僕には判《わか》りかねますよ」 「思慮も思想もなく、生活の延長上に殺人を行う異端《いたん》者。深く物事を考えていないのが明白なこの犯人は、当然時間帯には気を配りません。ただ自身の都合で、空いている時間に、それこそコンビニに行くついでにふとやってみました、という感覚の学生が私の予想する犯人像です」  僕の相づちは何処吹《どこふ》く風、独演会になってきたな。  しかもコンビニエンスストアを例と挙《あ》げますか。  根掘《ねほ》り葉掘り調べ尽《つ》くしたんだろうなあ、この人。男たるものストーカーの一人や二人いないとね、といった前向きな態度で受けとめるのが大物なのかな。 「ニュースは見ますか? 新聞でも構いませんけど」  話題移行への前|振《ふ》りに僕は頷《うなず》いた。 「それなら、最新の二件の詳細《しょうさうい》もご存じですよね」 「詳細ってほど事細かに知っているわけじゃありませんけど、一応は。八人目は自治会の会長で、最新が受験ノイローゼの中学生でしたっけ」  僕の言葉に軽く顎《あご》を引き、それから数秒の間を空けてきた。  無言の空間を訝《いぶか》る僕の上《うわ》っ面《つら》を、奈月《なつき》さんの無遠慮《ぶえんりょ》な目つきが撫《な》で回す。 「……何ですか?」 「疲《つか》れませんか、いつも無表情でいると」 「笑顔《えがお》を崩《くず》さない方が重労働ですよ、きっと」  ここ数年、笑顔の記憶《きおく》がない僕には。  本題に戻《もど》る。 「その二人の犠牲《ぎせい》者で気になるのは、やっぱり時間帯です。二人が殺害された時刻はどちらも休日の深夜に限定されています。ですがそれまでの七件は全《すべ》て平日の深夜か休日の朝方、昼間で、休日の深夜には行われていない」  名人の一手、四三|香車《きょうしゃ》。  駒《こま》を打つ幻聴《げんちょう》まで拝聴《はいちょう》してしまいそうな、追いつめられた雰囲気《ふんいき》。 「勿論《もちろん》、空いた時間に行っているから偏《かたよ》りが見られる……それはつまり、月間に、生活の状況《じょうきょう》が変わったということですよね?」 「質問系の語尾で締《し》めくくられても返答に窮《きゅう》します」  失礼、と口の端《はし》に薄《うす》ら笑いを浮かべる対面の相手。 「こんな時期に新しい生活|環境《かんきょう》を迎《むか》えるなんて変わってますね、犯人」  まるで僕の名前が犯人であるような言い方だな。  奈月さんが文字|紡《つむ》ぎの為《ため》の口を休める。店員が注文のココアを運輸《うんゆ》してきたことに配慮しているらしい。自分の注文でないに拘《かか》わらず店員に会釈《えしゃく》をした。  置かれた白磁《はくじ》のカップを取り、縁《ふち》に口をつける。 「ココアがお好きなんですよね」  店員が離《はな》れるのを見届けてから、発声を再開した。 「先生に聞いたんですか?」 「いいえ、みーさんの叔母《おば》様にです」  死角から予想外の人名が飛び出した。 「実はみーさんの叔父《おじ》様と叔母《おば》様には面識があるんですよ。田舎《いなか》の横社会の繋《つな》がりは面白いですね」 「……………………」 「みーさんのお話をよくされますよ。平日は夜勤が多くて、休日はみーさんが外出してることが多いから触《ふ》れ合う機会が少ない、と嘆《なげ》いていました」 「それは、僕も反省すべきですね……」  牧羊犬に柵《さく》へ追い込まれている気分を強制体験中。  けれど、手練手管の冴《さ》えた詐欺《さぎ》商売をやっている愉悦《ゆえつ》も、片隅《かたすみ》にある。 「それと、夜中に家を空けるから深夜外出を止め辛《づら》い、とも仰《おっしゃ》っていましたね」  奈月《なつき》さんの台詞《せりふ》が、十六ピースの安いパズルを埋《う》めていく。  示される絵柄《えがら》は明白なのに、焦《じ》らすように丁寧《ていねい》に。 「ああでも、一番の心配は彼女さんとの同棲《どうせい》でしょう。お相手の御園《みその》マユちゃんとは四六時中《しろくじちゅう》べったりしているそうで、独《ひと》り身《み》には羨《うらや》ましい限りです」  最後の一ピースを手に取る。 「そんなマユちゃんの生活サイクルを是非《ぜひ》海聞きしたいものです」  それで詰《つ》みですから。  この人の心は明確だ。常にさらけ出されている。実に不快だ。  乾《かわ》いた口内を、発汗《はっかん》したように滑《すべ》る舌で湿《しめ》らせて、口を開いた。 「聞かなくても、もう十分でしょう」  外に目線を走らせる。目を逸《そ》らしたともいう。雨は既《すで》に小降りになっていた。 「そうですね、カレーが来る前にこの話は終わらせましょう」  奈月さんの光沢《こうたく》のない瞳《ひとみ》が僕を中心に捉《とら》えきる。  そうして、昼食より優先度の低い話題は終わりを迎《むか》えた。 「学生で、最近行動に制限が出来て、深夜|俳徊《はいかい》が趣味《しゅみ》……そしてみーさんは、高校生です」 「……なるほど」  なるほど。  僕が犯人だから、高校生ですか。  効率的だ。 「くく……」 「うっくっくっくくくくく」  唐突《とうとつ》に、そして同時に。  僕と奈月さんは、声を包み隠《かく》さず、気持ち悪く笑った。  僕は長く。  奈月さんは短く。  頬《ほお》がひりつくほど笑い合い、隣《となり》のテーブルから客が退避《たいひ》した後に奈月《なつお》さんが締《し》めた。 「面白い探偵《たんてい》ごっこでした」 「ええ。痛くもない腹を探られて、危《あや》うく覚えのない罪を自供するところでしたよ」  心の内に溜《た》まった愉快《ゆかい》痛快を発散するべく、大げさに肩《かた》を揺《ゆ》すった。  この人との会話は、二人でババ抜《ぬ》きをやっているにも拘《かか》わらず、相手の手札だけが減っていくような不条理な感覚に苛《さいな》まれる。  鬱陶《うっとう》しく紛《まぎ》らわしく賢《さか》しく、隠《かく》し味《あじ》程度に楽しい。  笑う程度に、面白い。  慣れない笑い声をあげたからか、喉《のど》が渇《かわ》きを訴《うった》えた。少し甘みの強いココアで喉を潤《うるお》わせ、机上《きじょう》の空論並べの余韻《よいん》に心を浸《ひた》した。  そう、これはあくまで推理《すいり》ごっこに過ぎない。  だって証拠《しょうこ》ないし。  あったのなら、今日は私的でなく公的に警察署でご対面していただろう。そして机にあるものはココアではなくカツ丼《どん》だな、間違《まちが》いない。  奈月《なつき》さんの小鼻がひくついたので僕も鼻を利《き》かせてみたら、店内の造りを無視した協調性のないカレーの匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。 「食事が終わったら庭でも歩きませんか?」  見合いじみた奈月さんのお誘《さそ》いを、恭《うやうや》しくお受けした。  あんたの庭って鉄格子《てつごうし》の中かい? などと無粋《ぶすい》な軽口は胸の内に留《とど》めた。  喫茶店《きっさてん》を出た後は、聡明《そうめい》で(自称)美人な(これは認める)おねえさんにエスコートしてもらった。 「ここの大福|美味《おい》しいんですよ」 「洋菓子《ようがし》はあっちです。フルーツゼリーの美味しい店があるんです」 「あ、赤福《あかふく》の試食やってますね、行きましょう」  奈月さんの庭は食品売り場だった。  で、一|巡《めぐ》りして、和洋|節操《せっそう》なく菓子類や冷凍《れいとう》食品を購入《こうにゅう》して、その後。 「恋日《こいび》先生と一緒《いっしょ》に暮らしてたんですか」  奢《おご》ってもらった大判焼きを手に、屋上のフェンス際《ぎわ》に並んで立つ。  傘《かさ》を喫茶店に置き忘れたけど雨はやんでいたので、取りに戻《もど》るのも面倒《めんどう》だった。 「ええ、大学に在学中。私も恋日も地方の大学を受けて、生活費と爛《ただ》れた関係を考慮《こうりょ》して二人暮らしを始めました。あ、爛れたといっても良い意味で、ですよ」  あるのかそんな意味。  手に吊《つ》り提《さ》げた袋《ふくろ》から、奈月《なつき》さんが二個目の大判焼きを取り出して頬張《ほおば》る。  目尻《めじり》を垂《た》らして幸せの原寸《げんすん》を噛《か》みしめているようだった。 「よく私と、外で会う気になりましたね。マユちゃんと会わせるよりは、といったところですか?」  二口で大判焼きを食べ尽《つ》くして、おざなりな調子で質問してきた。 「ああ……えー、僕の取り合いになったら大変ですからね」  新鮮《しんせん》味のない理由しか思いつかなかった。  奈月さんの性格上、形式的にお気遣《きづか》いして頂いてありがとうございますなんて言うかと思っていたら、何も語らず僕を見つめていた。赤色じゃない狐《きつね》と未来の方からやってこない狸《たぬき》の化かし合いを、これ以上|所望《しょもう》してはいないらしい。ならば僕も目的を達成する為《ため》に、僅《わず》かな真実を振《ふ》ろう。 「二人きりの時に聞きたいことがあったんです」 「なんですか?」 「失踪《しっそう》中の兄妹《きょうだい》について。結局のところ、殺人事件に分類されてるんですか?」  警察のおねえさんに探りを入れてみた。  何となく、工場へ社会見学中の小学生みたいだと、既視《きし》感が脳に通りがかった。 「どうでしょうねえ」と首を捻《ひね》る。流石《さすが》に容疑者に情報提供はなしか、と思っていたら、 「実はですね、池田《いけだ》兄妹は家出の可能性があるんですよ」 「…………………………家出」 「相当、家庭|環境《かんきょう》が悪かったみたいです。朝方まで夫婦|喧嘩《げんか》して、そのとばっちりで二人も怒《おこ》られたり叩《たた》かれたりしてたみたいなんです。それで、家出の常習犯だったみたいで、今回もそれなんじゃないかって。ちょっと期間が長すぎますけど」 「常習犯……」  その情報が、僕の怠惰《たいだ》な脳味噌《のうみそ》を強制労働に駆《か》り立てた。  家出。処理|範囲《はんい》。通《とお》り魔《ま》殺人。  家出処理範り魔殺人。……連携《れんけい》させてどうする。  それはともかくとして、今のアレ。  事態の鎮静化《ちんせいか》の方法。  最悪の手段で最良の結果を導く術《すべ》。  木陰《こかげ》の大事。木の存在や出所を隠《かく》すなら森を利用するに限る。  倫理と道徳のこだわりさえ外せば、答えは直線的に繋《つな》がっていく。 「既《すで》に1ヶ月以上経《た》ってますから、安否《あんぴ》は疑わしいですね。家出か殺人か誘拐《ゆうかい》、どれにしても」 「嘆《なげ》かわしいですね」  定型句で受け答えに努《つと》めながら、思いついた方法を頭中で転がす。責任|転嫁《てんか》、押しつけ、非人道的、駒扱《こまあつか》い、人間失格。多角的に検討《けんとう》すれば、より多くの批判が増大するだろう。  しかし、それに追随《ついずい》して安心、簡単、手間いらずという三拍子揃《さんびょうしそろ》った評価も下されるはずだ。 「みーさんの立場からすると、やっぱり気になります?」  どういう意味で確認《かくにん》してるんだか。「イエスザッツライト」 「あら?」  僕の堪能《たんのう》な英語とは一切合切《いっさいがっさい》の因果《いんが》関係はなく、甲高《かんだか》い電子音が五年前の流行歌を奏《かな》でた。  監獄《かんごく》内で大流行してるファッショナブルなデザインに酷似《こくじ》した、横縞柄《よこじまがら》のスカートのポケットから、奈月《なつき》さんが青色の折り畳《たた》み型|携帯《けいたい》電話を取り出して待ち受け画面を開く。 「もうこんな時間ですか」  少し思わせぶりだったので、僕も電話を手に取り、液晶《えきしょう》のデジタル時計を見た。喫茶店《きっさてん》を出てから一時間ほど経過して、十二時半過ぎだった。 「すいません、これから仕事なんです」  奈月さんは申し訳なさそうだった。仕事って、その格好で何処《どこ》にお勤めなんだ。 「そうですか、実に名残《なごり》惜しいですが仕方ありませんね」 「そこまで嬉《うれ》しそうだと言った甲斐《かい》があるというものです」 「誤認逮捕《ごにんたいほ》されないように護送車に気を付けてください」  僕なりに精一杯《いっぱい》の忠告をした。奈月さんも笑顔《えがお》でそれを受け止める。うん、良い雰囲気《ふんいき》。 「みーさんのケータイの番号教えて頂けますか」  僕は快諾《かいだく》して十一桁《けた》の数字の羅列《られつ》を口上した。 「はい、私の番号もどうぞ。……では、自首する際にはまず私にかけて懺悔《ざんげ》してくださいね、お待ちしてます」  優雅《ゆうが》な物腰《ものごし》で一礼し、颯爽《さっそう》と去り行く。  が、くるりと回転|椅子《いす》に腰《こし》かけているように反転し、同じ歩幅《ほはば》で同じ場所に足を付けて僕の傍《かたわ》らへ戻《もど》ってきた。 「これは個人的な行いなのですが」 「えっ?」  一瞬《いっしゅん》で懐《ふところ》に入り込みぐいっと、頭を抱《かか》え込まれた。自然と膝《ひざ》が折れる。  ふくよかとは言い難《がた》い胸部に、顔の表面が埋《うず》められる。  事前動作もない、無拍子《むびょうし》のような体|捌《さば》きに、僕は身じろぎも出来ない。 「んー、良い匂《にお》い……」 「……あの、殺人犯にこんなことしていいんですか」 「容疑者確保です」  心底楽しんでいるのが伝わる声だった。  と、鳥肌《とりはだ》が、羽化《うか》してしまう。  そんな身体《からだ》の拒絶《きょぜつ》意志に反して、奈月さんの背中に手が伸《の》びていった。食べかけの大判焼きが衣服に触《ふ》れないよう、気を遣《つか》いながら。 「……あら?」 「あ、そのですね、背中を刺《さ》されたら危ないですから……」  しどろもどろの理由付けに、「ありがとうございます」と返《かえ》してきた。  緩《ゆる》く抱《だ》きしめた奈月《なつき》さんの背中は骨の感触《かんしょく》が目立つ。パンとカツカレーとフルーツゼリーと赤福《あかふく》と海老煎餅《えびせんべい》と鳥骨鶏《うこっけい》の卵プリンと松前漬《まつまえづ》けと大判焼きを一時間以内に食べ尽《つ》くす人の身体とは結びつかない。  頭髪《とうはつ》に指を入れられる。指先で梳《す》きながら、爪《つめ》で頭皮を軽く掻《か》いてくる。鳥肌《とりはだ》が地肌から飛び出そうだった。 「……あの、いつまで確保中ですか」 「取調中です。それにみーさんもお離《はな》しになってくれませんし」 「これは、だからえーと……」  くすくす、と口に出して奈月さんが笑った。それから、 「懐《なつ》かしいですね」 「はい?」  奈月さんの手が頭部から離れた。僕の腕《うで》からするりと抜《ぬ》け出し、一歩|距離《きょり》を置く。動揺《どうよう》を覆《おお》いきれない僕を後目《しりめ》に、奈月さんは口元を押さえ、悪戯《いたずら》っぽく肩《かた》を揺《ゆ》する。 「貴方《あなた》、女の子に好かれる人ですよ」  そんな台詞《せりふ》を最後に、奈月さんは軽やかな足取りで今度こそ屋上を後にした。 「…………………………うーむ」  唸《うな》りながら姿勢を正してフェンスを向き、緑の目立つ景色《けしき》を暫《しばら》く見下ろした。  一分ぐらい経《た》ってから、今更《いまさら》のように照れた。  首筋を人差し指で掻く。  何だ? 盗聴《とうちょう》器でも付けたのか? 或《ある》いは発信器、それとも身体検査か?  とにかく帰ったら服は洗濯《せんたく》機に放《ほう》り込んで風呂《ふろ》に入ろう。  うん、それが良いそうしよう。  照れ隠しお終《しま》い。  残った大判焼きを口に放り込んでから、振《ふ》り向いた。  マユが立っていた。  僕の全《すべ》てが見合わせたように停止した。  黒い傘《かさ》、黒のセーター、黒のスカート、黒の厚底|靴《ぐつ》、黒い帽子《ぼうし》、黒髪《くろかみ》。  際立《きわだ》ち人目を惹《ひ》く格好、そして蒼白《そうはく》の肌《はだ》。  御園《みその》マユが立っていた。  僕かマユのどちらかが歩み寄り、距離《きょり》を三十センチ程度に詰《つ》めた。  僕とマユのどちらかが口を開き、言葉を発した。  嘘《うそ》つきと、どちらかが言った。  そう、僕は嘘つきだ。  スイッチが入った。  逆方向に、無理矢理。 「尾行《びこう》してたの?」  何かが復旧した。これは僕の言葉だ。  マユは無言で、腕《うで》を振《ふ》り上げる。平手ではなく、握《にぎ》り拳《こぶし》。殴《なぐ》る気なのだろう、と理解出来るほど緩慢《かんまん》な動作。僕に避《さ》ける気がないとでも思っているのか。口の中の物を噛《か》まずに喉《のど》を鳴らして飲み込む。 「まーちゃんは嘘つきだねえ」  殴られた。握り拳は僕の頬《ほお》から前歯に当たり、皮膚《ひふ》を破《やぶ》った。  御園マユの手に、また傷が一つ増えた。 「探偵《たんてい》ごっこは楽しかった?」  再度殴られた。目深《まぶか》に被《かぶ》った帽子の奥の瞳《ひとみ》は石みたいだった。  マユの握り拳には、赤色の血と、紅色のルージュ。消してはいけないものは、描《えが》き、命じた本人の手によって消去された。 「なに、あれ」 「あれ呼ばわりは駄目《だめ》だよ目上の人を」  こめかみを傘で殴られた。  違《ちが》うんだよまーちゃん、あれは君の罪を暴《あば》く人だよ。  だから浮気とかそんなもの関係ないんだよくだらねぇ。 「なんで笑うの」  人間にそんな質問するなよ。 「わたしといる時は笑わないのに」 「…………………………」  ああそうか。  嫉妬《しっと》、してるのか。  そう嫉妬。僕が嫌《きら》いな感情。  懐《なつ》かしいなあ。  あははははは。  笑ってみた。  殴《なぐ》られた。  抱きしめた。  突《つ》き飛ばすように僕の二の腕《うで》を押して、マユが距離《きょり》を取った。 「あの女の臭《にお》いがする」  上社奈月《かみやしろなつき》の匂《にお》いを嗅《か》いだことがあるっていうのか。  ああ、あるかもね。 「こんなのみーくんじゃない」 「……そう」  それだけで、  僕は、みーくんじゃないんですか。  優《やさ》しくなければみーくんじゃなくて、  いつでもまーちゃんの相手をしていなければみーくんじゃなくて、  他《ほか》の誰《だれ》かと触《ふ》れ合えばみーくんじゃなくて、  みーくんじゃなければ、僕じゃないってか。 「なるほど」  ぐるっと見渡《わた》す。  金網《かなあみ》。  金網か。  低いなあ。  きっと前例がないから、対策の立てようがないんだ。  ぐるっと首を捻《ひね》ってマユを見た。 「これは君のためだったんだよ。君のことを××してるから、やむを得なかったんだよ」  うそだけど  うそダけどウソだけド宇素打気度USODAkEどう$O岳土鷽堕ヶDO羽礎駄家。×××罰罰兎組抱け℃憂そう粗相そうそすそおすそすそデリート  デリートデリートデリート  スペースキー、ヘンカン。ヘンカン、ヘンカン、ヘンカン  うそだけど 鶯《うそ》だけど ウソだけど 嘘《うそ》だけど  あった。あったあたたああああたたたたたった  嘘だけど 「ばーか」  その通りだ。 「嘘《うそ》つき」  その通りだ。 「死んじゃえ」  その通りだ 「えっ?」  金網《かなあみ》に片足と手をかけ、それを軸《じく》にして飛び跳《は》ねる。フェンスの最上部を掴《つか》み、身体《からだ》を引っ張り上げた。  足を上部にかけると、世界は安定性を放棄《ほうき》した。  手で支えず、振《ふ》り向く。  ×しい  ×しい  ×しい  ×しい  ×しい  ×しいまーちゃんが理解不能に目を見開いていた。  どうなると思う?  すぐに分かるから、まーちゃんは何も考えなくていいんだよ。  ただ、目撃《もくげき》すればいい。  目撃して幸せに生きてください。  息災《そくさい》と長寿《ちょうじゅ》とご冥福《めいふく》をお祈《いの》りします。  じゃあね。 「ばいばい」  誰《だれ》かが何かを口にする前に、僕は境界を跳《と》び越《こ》えた。  人生で最も枷《かせ》の外れた時間の始まり。  頭から落下していく。  血の気が引いて、  空《そら》の音を聴《き》いて、  それから、  あ、紐《ひも》つけ忘れた。  僕は死んだ、 [#改丁] [#ここから3字下げ] 十人目『トイカケルサツジン』 [#ここで字下げ終わり]  今回は犯人の都合により治休みします [#改丁] 四章 『崩壊』 [#ここから3字下げ] 「ここから出たら、どうしよう?」  へんじはない。 「ぼくはしっかりとおふろに入りたいな」  へんじはない。 「でも、おとうさんたちのことはどうしよう?」  へんじはない。 「もうねてるの?」  へんじはない。 「おやすみ」  へんじはなかった。 [#ここで字下げ終わり]  目を閉じている間、思考は普段《ふだん》より活発に脳|細胞《さいぼう》を巡礼《じゅんれい》していた。  その中で、こんなことを思った。  人間死ぬ時はあっさりしたもんだと語る人がいる。  人間はゴキブリのようにしつこく生き延びると嘆《なげ》く人がいる。  どう贔屓《ひいき》目に判断しても、死ぬことの方が清く正しく潔いように思えてならない。  そして汚《きたな》く間違《まちが》いだらけで退《ひ》き際《どわ》を心得ない僕は、瞼《まぶた》をいつも通りに開いた。  死んだ両親が並んで目の前にいた。  ……いや嘘《うそ》じゃなくて。 「お久しぶりです……」  おはようとどちらにすべきか迷い、そんな挨拶《あいさつ》をする。カラテカみたいに、両親の全身がくしゃくしゃに折れ曲がって頷《うなず》いた。そこでようやく、視界と脳味噌《のうみそ》が連結し、理解に至った。  つまり、 「夢オチだ」 「ダウト」 「正解」  新聞の切り抜《お》きが視界から取り除《のぞ》かれた。代わりに、白い天井《てんじょう》を背景にして恋日《こいび》先生が現れる。今日は銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》をかけていた。先生に新聞とは、また似合わない取り合わせだ。 「悪趣味《あくしゅみ》ですね」 「自殺しようとしたバカには、これぐらいの冗談《じょうだん》は許容|範囲《はんい》」  冷めた物言いに、怒《いか》りが振《ふ》りかけてあった。未体験の態度に、どう振る舞《ま》うべきか躊躇《ためら》う。とにかく、寝《ね》たまま話をするのも失礼だろうと、起き上がってみることにした。  寝たきりだったためか、凝《こ》り固まっていた身体《からだ》、取り分け背中が痛んだものの、問題なく上半身は曲がった。周囲を見渡《わた》す必要もなく、消毒の匂《にお》いでここが病院だと知る。その、鼻腔《びこう》をざわめかせる香《かお》りは別に不快じゃない。初めて病院の世話になる以前、遥《はる》かに醜悪《しゅうあく》な臭《にお》いを体験していたから。  窓から差し込む真昼の日差しに目を焼かれながら、身体を一頻《ひとしき》り観察する。輸血用の管も、仰々《ぎょうぎょう》しく巻《ま》かれた包帯も見当たらない。格別に痛む箇所《かしょ》も存在せず、手首から先もあれば足の指もある。頭に血が不足している気がするだけで、後は普段の起床《きしょう》と何ら変わりがなかった。もしや改造手術でも受けたのかと、先生に説明を求める。そういえば、何故《なぜ》ここに先生がいるんだろう。謎《なぞ》だらけだ。 「……死んでないです、よね」 「君はアタシまで死んだと言いたいの?」  声に茨《いばら》が巻き付いている。聞く側としては心地良くないけど、特に対処法が思いつかないので普段《ふだん》通りに接することにした。 「僕の見ている死後の世界だから、周囲の人まで死の必要は……ま、死んではないか」  また死に損《そこ》なったのか。 「まさか本当に夢オチ?」 「間違《まちが》いなく夢じゃなくて現実に落ちたよ君は。デパートの屋上から飛び降りて、空中で回転して水平に下りて、雨宿り用の屋根をぶち破って白目|剥《む》いて泡噴《あわふ》いてバタンキュー。屋根が斜《なな》めで幸いだったわね、外傷一つなしよ」 「……わーお」  病院にいることが申し訳なくなる。 「体調は?」  髪《かみ》をざっと掻《か》さ上げながら、社交辞令のように尋《たず》ねてきた。大変良好ながら肩身《かたみ》が狭《せま》いことを告げると、先生は一度|頷《うなず》いた後、僕の胸元を掴《つか》み上げた。 「君は一体何を考えているの?」  くだらないことが九割を占《し》めています、と言える雰囲気《ふんいき》ではない。場を凌《しの》げる言葉を探す。 「えー、何というか」 「殴《なぐ》っていい?」  充血した瞳《ひとみ》が見据《す》えてくる。僕は首を斜めに振《ふ》った。 「なにそれ」 「個人的には殴られて当然とは思うんですけど、既《すで》にマユに殴られているのでこれ以上|唇《くちびる》を切りたくはないなあと思ったり」  ぐだぐだ言っているうちに頬《ほお》を叩《たた》かれた。  平手だった。  めちゃくちゃ痛かった。  未《いま》だ掴まれている胸元の手に引き寄せられ、がくがくと人形的に頭が揺《ゆ》れる。  そして先生が泣いた。 「はい?」  なんで?  頬が痺《しび》れてるのは僕なんだけど。  トゲでも生えてたのか?  粘《ねば》り気の強い汗《あせ》が膿《う》み出る。不快不可解。泣きながら顔を逸《そ》らさない。涙《なみだ》も拭《ふ》かない。待っているのか。窺《うかが》っているのか。沈黙《ちんもく》が、苦痛だ。 「泣いて、ますよ?」  およそ人間らしさの不足した台詞《せりふ》が、僕の精|一杯《いっぱい》だった。  ビンタが往復してくるかと、せめて醜態《しゅうたい》を晒《さら》さないように身構える。  けど、先生の反応は違《ちが》った。  自嘲《じちょう》に近い顔つきになり、首元の圧力を緩《ゆる》めてくる。 「私、泣いてる?」「いいえ」  咄嵯《とっさ》についた嘘《うそ》は無視された。先生の指が頬《ほお》をなぞる。感情の象徴《しょうちょう》である液体を拭《ふ》き取り、確かめるようにそれを舐《な》めた。  先生は喉《のど》を鳴らす。けど笑顔《えがお》とは程遠《はどとお》い。 「やっぱり、失格」 「シッカク?」  掴《つか》んでいた手が僕をそのまま押し飛ばした。受け身を取らず、斜《なな》めに倒《たお》れてベッドを軋《きし》ませる。すぐに体勢を戻《もど》しても展開に付いていけないだろうから、誰《だれ》かに引き揚《あ》げられるのを待ってみることにした。血が集《つど》い出したのか額が重い。頬《ほお》も痒《かゆ》い。  先生の言葉の続きを待つ。どんな罵倒《ばとう》が飛び出すだろう。狼狽《ろうばい》は避《さ》けられるように、今度は心を踏《ふ》ん張《ば》らせる。ふくろうみたいな鳥の鳴き声が屋外から無料配送されて、意識の表面に出来たささくれを取り除《のぞ》いてくれる。  準備が整う。  しかし、焦《じ》らされる。  三百、六百と秒数を計測し続け、頬を掻《か》き、額に手をやり、先生は既《すで》に病室から去ったのかと疑い、けれど身体《からだ》を持ち上げてそんなことの確認《かくにん》に目玉を労働させることも億劫《おっくう》だった。  規則的な鳥の歌や、天井《てんじょう》との睨《にら》めっこも飽《あ》きた。  よって不本意ながら、僕から話しかけた。 「僕はどれぐらい寝《ね》てました?」 「丸二日。身体に異常はないから心の問題だって医者が言ってた」  即答《そくとう》された。或《ある》いは、先生も僕の言葉を待っていたのかも。 「殺人事件はありました?」 「社会の出来事をアタシに聞かれても困る」  そうでした。 「屋根の修繕《しゅうぜん》費は?」 「御園《みその》が支払《しはら》った。いいとこのお嬢《じょう》様だからね、あの子」 「そのマユは?」  本命への返答には、若干《じゃっかん》のタイムラグがあった。 「寝てるんじゃないの、多分」  淡々《たんたん》とした返事は、予測から寸分|違《たが》わなかった。 「マユは、普段《ふだん》通りでしょう?」  重々しく顎《あご》が引かれるのを、目玉を限界まで酷使《こくし》して見届ける。  やっぱりねと納得《なっとく》がいく。 「壊死《えし》してますからね、大半の感情。一番|癖《くせ》のある妬《ねた》みが残ってるから、人間らしさは最底辺で留《とど》まってますけど」  僕が飛び降りた程度で、彼女は罪悪感を取り戻《もど》さない。  きっと、死んでも。 「御園《みその》を怒《おこ》らないの?」 「無い物ねだりはしませんよ」  マユに悲しさが残っていたら昔の時点で自殺を図っていただろう。  だから、これで良い。  最悪の中の最善だ。 「それに怒り方を忘れてるし……枯死《こし》してますから、心」  精神科の先生に心を語るなんて、分を弁《わきま》えない愚行《ぐこう》だったかな。 「死んでないよ。眠《ねむ》ってるだけ」  案の定、即座《そくざ》に否定された。  昔からの先生の主張。  心が死ぬってのはご臨終《りんじゅう》した時とイコールなの。どんな歪《ゆが》んでいようと心があるから生物でいられる。それが生物を形作る定義とアタシは信じてる。  幾度《いくど》も耳にした持論。それに、幾度も反論する。 「起きる見込みがないなら、死んでるのと一緒《いっしょ》じゃないですか」  この手の会話を始めると、いつだって先生はくだらないモノを見る目になる。それは主治医が息者《かんゃや》を診《み》る観察眼とはかけ離《はな》れた、愚者に苛立《いらだ》つ心情を体現しているようだった。 「人であることを嫌《きら》って、自覚的に放置してる奴《やつ》がよく言うよ。見込みがないなら自分で立てればいいじゃない」  喧嘩腰《けんかごし》で常套句《じょうとうく》を述べる。この問答も、お互《たが》い聞き飽《あ》きている。だから最近はこの初《しょ》っ端《ぱな》で切り上げ、続きは討論《とうろん》しないことが暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》となっていた。今回も例に漏《も》れず、ここで話題を変えることになる。  喉《のど》に砂が張り付いたようにざらつき、乾《かわ》く。それでも口以外を働かせる気力はなく、思考の残骸《ざんがい》を唾棄《だき》した。 「仕事、サボってていいんですか?」 「昼間からそんなことしてられっか」  こんな人でも社会人として生活を営める日本は度量があるのか大雑把《おおざっぱ》なのか。 「つーか辞《や》めた」「はぁ?」  言葉で身体《からだ》をサルベージされた。脊髄《せきずい》君の指示に従って飛び起き、先生を見た。椅子《いす》の上で体育座りの姿勢を取り、足の指を観察していた。 「ちょ……えと、何故《なぜ》に?」 「向いてないスから」  バイトを辞《や》める若者だって今はもう少し殊勝《しゅしょう》な態度を取るだろうと思うぐらいにぞんざいな態度。涙《なみだ》の乾《かわ》いた頬《ほお》は本来の役目を果たすように、シニカルに歪《ゆが》む。 「アタシは天職に就《つ》いていて、これ以外の仕事に従事することなんてないと思ってたの? 君にしては思い込みが激しいわね」 「いや、だって辞めたら先生が杜会的に先生じゃなくなって、けど僕にとってはやっぱり先生ですから複雑|怪奇《かいき》なわけです」 「なるほど、複雑だ」と先生が苦笑する。椅子の上の足を伸《の》ばし、僕のベッドに踵《かかと》を置いて橋を架《か》けた。 「仕事をしてた時は一日が八時間に思えたのに、今は二十四時間をちゃんと生きてる感じ。もー最高、辞めた甲斐《かい》があるね」 「……取り敢《あ》えず、『ちゃんと』と『ちゃんこ』間違《まちが》えてたりしてません?」 「ふん、社会の構成員として働くのが清く正しい人間のあるべき姿と言いたいわけね。枠組《わくぐ》みから外れたフリして、存外良い子ちゃんなんだから」  僕と干支《えと》が一回り違う妙齢《みょうれい》の女性は唇《くちびる》を尖《とが》らせ、子供染みた態度で不満を表す。ドンドンと駄々《だだ》をこねるように踵をベッドに打ち付け、それが時折僕の臑《すね》を捉《とら》える。マユ化が進んでますねと嫌味《いやみ》の一つでも零《こぼ》したくなる所行だ。 「ちゃんと引《ひ》き継《つ》ぎの先生はいるから、検診《けんしん》は心配しなくていいわよ」  独自のリズムまで付けてバンドのドラム担当と勘違《かんちが》いしてるような踵落としを決めてくる。 「はぁ」としか返せない。 「気のない返事ね」 「多分行きませんから……あ」  嘘《うそ》をつけばよかったと後悔《こうかい》が過《よぎ》る。  意地の悪い元女医は失言を見逃《のが》さない。目を光らせ、いじめっ子へと変貌《へんぼう》する。 「なんだなんだ、そんなにアタシが良いの? いやーん、うれぴー」  しなをつくるな。 「診療《しんりょう》に通ってたわけじゃないんで」 「ふーん、そっかそっか。アタシも、多少は医者としての意味を成せたわけだ」  にひひと歳《とし》不相応に笑う。悶《もだ》えるように足をばたつかせ、病院の規律を破壊《はかい》する騒音《そうおん》を立てる。同室の人に迷惑《めいわく》でしょうとたしなめようとして、もぬけの殻《から》であることに今更《いまさら》気付いた。 「おーおー、これが青春ドラマ的ってやつかね。医者になって良かったと辞めた後に思うわけ」  僕を辱《はずかし》めるためか、或《ある》いは本気か。先生はそんなことを言って、逆説的に医者をやっている間は良かったと思ったことなど何一つないことを伝えてくる。  自分にとってそうであると承知のうえでなのか、それとも。 「…………………………………」  好奇心《こうきしん》が心を跳《は》ねさせる。詮索《せんさく》しないという理性を抑《おさ》えて。 「なんで医者になったんですか?」 「お、ごまかしにかかってる」 「違《ちが》うっつーの」 「マジに聞きたいの? ドラマでもドキュメンタリーでもないわよ」 「歴史考証モノは嫌《きら》いじゃないので」  踵《きびす》の昇降《しょうこう》を停止し、先生が僕の顔を直視する。それから「ふむ」と一拍《いっぱく》置いて、話し始めた。 「アタシの家は先祖代々医者畑だったから、自然と進路は決まってた。魔王《まおう》を退治した勇者の子供が救世の勇者と期待されるのと原理は一緒《いっしょ》。で、精神科医だけがいなかったからアタシがなればなんつーか階級|制覇《せいは》じゃん、とかときめいた。人として当然そう思うわよね」  人であるための障害《しょうがい》を追加しないでほしい。 「正直なんでもよかった。仕事に夢や将来を託《たく》す気はなかったから。大体さ、アタシがどんなに頑張《がんば》ったって何にも残せないじゃん。世界どころか日本のミジンコみたいな村に対しても影《えい》響《きよう》を与《あた》えられるわけじゃないし。後は出来ることなんて、子孫を残すことだけど、アタシにはそれも叶《かな》わない」  結婚しないんですか、と聞こうとして飲み込んだ。 「つまりアタシには、生きた意味がない。客観的にみるとの話ね。人生は個人だろみたいな考え方もあるけど、アタシャそーいうのは好きじゃない。認めるより認められる方が価値がある。人は人の中で生きてるんだからね。……ま、話が逸《そ》れたけど、そーいう青|臭《くさ》い思想に基づいて、どんな仕事に就《つ》いても一緒《いっしょ》だよなノリで精神科医の坂下先生と相成りましたとさ」  めでたしめでたしはなかった。  ……それでいいのか。まだ、終わったわけじゃないし。  先生は僕を引《ひ》っ叩《ぱた》いた右手の平を見つめ、指の開閉を繰《く》り返す。 「そんないい加減な志望動機にくわえて、手がね、出ちゃったわけだ。患者《かんじゃ》にビンタかましちやった。で、アタシは恥《はじ》知らずだけど恥|曝《さら》しを続けるほどに孤高《ここう》じゃないから、辞めました」  そう締《し》めくくり、背筋を反らして椅子《いす》の背もたれに一層重心をかけ、天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。  視聴者《しちょう》の声は求めていないようだ。僕も言うことはない。 「ねぇ、治療《ちりょう》ってなに?」  感情の稀薄《きはく》な声が鼓膜《こまく》を振動《しんどう》させた。 「……すいません、デジャビュが」 「聞いたわよ、前にも。素敵《すてき》に陳腐《ちんぷ》な四十点の解答が返ってきたわ」  あれ、僕の心の日記帳には百点を頂戴《ちょうだい》したと記載《きさい》されているぞ。  後頭部に両手を重ねて当て、伸《の》びをした後に先生が口を開く。 「身体《からだ》の治療《ちりょう》と心の治療。どちらが難しいかは知らないけど、どっちの方が曖昧《あいまい》かは一目瞭然《いもくりょうぜん》。大体、心の治療ってなにって話よ。喜怒哀楽《きどあいらく》を正常化すること? 正常ってどういう定義? じゃあ心を以前の状態に戻《もど》せばいい? どういう配分で? 回復の手助けをして自主性に任せる? 本人にその気があるかも知らないのに?」  矢継《やつ》ぎ早に天井《てんじよう》に疑問をぶつける。まさか僕への質問じゃないだろう、と傍観《ぼうかん》していたら踵《かかと》を足首に投下してきた。しかも意見など言う暇《ひま》を与《あた》えずに続きを紡《つむ》ぐ。 「アタシのとこにいる入院|患者《かんじゃ》は、まともな奴《やつ》だっているよ。むしろ大半が普通《ふつう》。ちょっと無気力な人や、病的に規則を求める程度の、言ってみれば社会の何処《どこ》にでもいそうな人達ばっかり。けど、それだけでも異端《いたん》と見なされるのが世の常。疎《うと》まれて、それが嫌《いや》で自主入院する人だっている。……そんな中で、一割ぐらいかな、電波の送受信が完全に行われちゃってる人とか、妄想《もうそう》の世界に意識の基盤《きばん》をシフトしてる人とか。例えば、御園《みその》のまーちゃんとか」  僕の興味を惹《ひ》くようにその名前を挙げてきた。当然|釣《つ》られてしまう僕は先生を見るが、天井とのメンチ切りに忙《いそが》しいお方なので目線はかち合わない。 「あいつが感じてる幸せの背景は不幸色。けどどんなに周囲が不幸でも、ピントを幸せだけに合わせれば幸福。どれだけ幸福に満たされているように見えても、それを彩《いろど》る背景は不幸一色、さっきの話でいう主観と客観の差だろうけど、アタシから見れば不幸の塊《かたまり》の御園マユも、本人はみーくんが側《そば》にいれば幸せホクホクなんですって。こんなのがいればハッピーなんだから、あーら安上がり」 「……確かに安いですけどね」  こんなのは別段否定せずに相づちを打つ。本当にお気に入りなのだろうか。 「御園がもう一度入院して、改竄《かいざん》した記憶と健常から程遠《ほどとお》い精神を立て直しても、不幸な過去を取り戻《もど》すだけ。それと向き合って目を逸《そ》らさずに幸せをもう一度見つけてくださいなんて、上から物事を見てる人間の言い草。耐《た》えきれずに自殺を図る奴《やつ》だっているんだから。真実から目を背《そむ》けるな、なんて傲慢《ごうまん》な人間の押しつけに過ぎない。アタシは認めないね」  研《と》がれた声が意志を語る。  患者側にいるはずの僕の心には、少なくとも否定は生まれず、マユのことを思った。  先生はゆっくりと顔を下ろし、今度は自身の足の指先に目の焦点《しょうてん》を合わせる。 「ウチの病院には鏡の中の自分と一日中お話しする人や、予知能力を持ってるって吹聴《ふいちょう》する妄想症《もうそうしょう》の人もいるけどさ、アタシと比べてどっちが幸福かなんて分かりはしないのよ。アタシは具体性のある幸せなんて知らないけど、あの人達は知っているかも知れないし、体感しているのかも知れない。それは周囲に認められない幸せだけど、簡単に他人が奪《うば》えるものじゃない。だって、もし治ったからって幸福になれるとは限らないし、むしろ一度その状態にまでなった人は、周囲の評価がどうしても下がるから……とか悩《なや》んじゃってたのよね、ずっと」  苦悩《くのう》は過去形で表現される。  けどそれは、円満解決をしたわけではなく。 「延々と悩んで、でも答えが出ないならアタシは逃《に》げる。ヘタレだから。正直、このまま続けたらアタシの心も病みそうで怖《こわ》い。自分で培《つちか》い、行動の指針にしてきた真実が塗《ぬ》り替《か》えられそうで、恐《おそ》ろしい。向いてないから辞《や》めるなんてのは言い訳で、結局のところそーいう理由なのかもね」  てゆーか、そういう理由  そう言い終え、ようやく僕の顔を見た。  晴天の目が眩《まぶ》しい。奈月《なつき》さんと対《つい》を成すように瞳《ひとみ》が光に満ちている。  それは、かつて入院した際に見た人達の目と酷《こく》似している。  統合失調|症《しょう》の人の目と、似ている。  何処《どこ》で、彼らと彼女の目は評価の明暗を得ているのか。  乾《かわ》いて皮がめくれている唇《くちびる》が蠢《うごめ》く。 「君は」  意図的に句切る。 「君は、御園《みその》と一緒《いっしょ》にいると、幸せ?」  淡《あわ》い靄《もや》を視界にかけながら、掠《かす》れた声が出た。 「はい」  僕は、嘘《うそ》をついたのだろうか。  先生は何も言ってくれない。ダウトでも正解でもない。  無視するように、顔を逸《そ》らされた。  それはつまり、仮に僕が真実幸福の最中であったとしても、  認められるモノではないと、いうことなのか。 「さてと。じゃ、アタシはそろそろ行くかな」  退《ひ》き際《ぎわ》を察したように踵《かかと》を上げる。  そして振《ふ》り下ろした足を軸《じく》に前転し、ベッドへ転がり込んできた。  脳味噌《のうみそ》が疑問|符《ふ》で一杯《いっぱい》になった。  そしてその群れを吐《は》き出す前に、先生のぶちかましを頂戴《ちょうだい》して僕はベッドから転がり落ちた。 「どーん」「うわぁー」なんて優《やさ》しい表現の介入《かいにゅう》する余地はなかった。  距離《きより》にして一メートル未満の、寝台《しんだい》から床《ゆか》への落下は、屋上から飛び降りた時より痛かった。  転がる際に床へ落ちた先生の眼鏡《めがね》をついでに拾い上げ、立ち上がる。患者《かんじゃ》用のベッドは、健康そのものな元社会人に大の字で占拠《せんきょ》されていた。 「……あのですね」  もっと遠くを目的地にしてください、と言葉を続ける気力が萎《しぼ》む。  先生は「いいじゃんかよ」と悪びれない。 「怪我《けが》なし病《やまい》なし健康|極《きわ》まりない奴《やつ》が病院のベッドで寝《ね》る必要ないでしょ」  何故《なぜ》この街の連中は(僕も含めて)我が身を振《ふ》り返るという行為《こうい》を実践《じっせん》しないんだ。  そう喚《わめ》き立てる気概《きがい》も湧《わ》かず、溜息《ためいき》一つを了承《りょうしょう》の合として、今まで先生が座っていたパイプ椅子《いす》に、打ちつけて痛む尻《しり》を下ろした。右手にあった眼鏡《めがね》を何気なく掛《か》けると、眼球に鈍痛《どんつう》が走った。 「どーせ帰ってもやることないしー」 「ハローワークが手招きしてますよ」 「なにそれ? 寝太郎《ねたろう》は三年寝て六年|頑張《がんば》ったんでしょ。アタシは六年頑張ったから十二年休んでいいの、間違《まちが》いないわね」 「例えも勘定《かんじょう》も全《すべ》て間違ってます」  シリアスな空気が換気《かんき》されたことを受け入れ、額に垂《た》れた髪《かみ》を掻《か》き上げる。先生の話と僕の答えを頭の中でこねくり回したかったけど、保留するしかない。  道化者が、似合わない状態で呼吸していた所為《せい》か、肩《かた》が凝《こ》っている。ほぐすために両肩を回しながら先生を見ると、夢の棺桶《かんおけ》に片足|突《つ》っ込んでいた。本当に小マユ化しつつあるんじゃないかと危倶《きぐ》してしまう。視線に反応したのか目を擦《こす》り、伸《の》び伸びと欠伸《あくび》する。 「ひょふひへば、君の叔父《おじ》さんと叔母《おば》さんが怒《いか》り狂《くる》ってたから、頑張《がんば》ってね」 「あー……そうだよな、そうなるよな。頭いてー」 「それは困った、半分の優《やさ》しさでも処方してあげようかね、アハハハハハハハ!」  世界一幸せそうに馬鹿《ばか》笑いする先生の影響《えいきょう》を受けて、本当に頭が痛くなってきた。 「……先生、何でここにいるんです?」 「君は見舞《みま》いという言葉と、行為《こうい》を知らないのかしら?」  さも当然そうな先生の態度。その素っ気ない言い方と台詞《せりふ》は感動路線だったけど、患者《かんじゃ》のベッドで横になり欠伸をしながら行う見舞いなど僕は知らない。 「そういえば後で奈月《なつき》も来るって言ってたわね」 「うぇ」  露骨《ろこつ》にしかめ面をした。  そして先生は一目で分かるほど楽しそうに顔をほころばせた。  それから先生が本格的に寝息を立て始め(帰れよ)、独り思う。  生きていたからには。 「まあ、何というか機を逃《のが》したんですけど」  一応、お約束ってことで。  では。 「嘘《うそ》だけど」  僕は、生きていた。  そして翌日《よくじつ》、簡単な検査と叔父《おじ》夫婦|主催《しゅさい》の呪誼《じゅそ》めいた説教|視聴《しちょう》会に強制参加させられた後、右足を庇《かば》いながら現れたマユと再会した。聞くところによると先日、デパートの屋上から階段を下りる際、見事に段差を踏《ふ》み外して挫《くじ》いたらしい。それを聞いて、申し訳ないような、どうでもいいような濁《にご》った気分を内在させながら病院を後にした。  歩道には黄色の枯《か》れ葉《は》が積もっている。マユと暮らし始めた時の蒸《む》し暑さも、水に浸《ひた》るような冷涼《れいりょう》の空気に取って代わっている。病院の夜の冷え込みは、気付いた時には少なからず驚《おどろ》かされた。  長かった今年の残暑もようやく退場だ。それは直《じき》に檻《おり》の中へ入ることになる僕の、成人するまでに迎《むか》えられる外の夏が終わったということだ。名残《なごり》を惜《お》しむわけじゃないけど、一度くらい思い切り深呼吸しておくべきだったかと、僅《わず》かに後悔《こうかい》に似たものが過《よぎ》った。  さて、感傷に浸るのはここまでにして、いつもの僕に戻《もど》ろう。 「酷《ひど》いと思わない?」 「そうだねぇ」  一字一句、全《すべ》てを聞き漏《も》らしているマユの愚痴《ぐち》に、適当に相づちを打つ。 「あの嘘つき、わたしの顔を見たらいきなり叩《たた》いてきたんだよ。やり返そうとしたらすぐに逃《に》げるし。前から思ってたけどあの嘘つきは頭がおかしいよ。みーくんも会わない方が絶対いいよ」 「ふうん。……まーちゃんは、何か怒《おこ》られるようなことをした覚えはないの? なんか、生意気な態度を取っちゃったとか」 「全然」と、完全に否定する。 「そっか。じゃあ、まーちゃんは悪くないんだろうね」  落ち葉より薄《うす》っぺらで心ない同意。マユはそれでも、静かに顎《あご》を引いて嬉《うれ》しがる。  元より予定はないけど、僕は子を持たない方がいいな。甘やかしすぎてワガママ極《きわ》まりない馬鹿《ばか》人間を世に誕生《たんじょう》させることになる。そう痛感した。 「そういえば、修学旅行には行かなかったんだね」  先生についてマユに話をさせたくないので、話題を変える。クラスの皆《みな》が今頃《いまごろ》、熊本《くまもと》のサービスエリアだの長崎《ながさき》のサービスエリアだので楽しくやっている旅行にマユは参加せず、ここにいる。誰《だれ》のためか定かではないけど、僕がノーロープバンジーを敢行《かんこう》ぜずに旅行者の一員となっていたら、マユも来たのだろうか。 「だってみーくんが行かないから」  当然でしょ? と暗に告げる確固とした言葉だった。  ……必要とは、されているわけだ。  なら、今はいいか。  先生なら怒《おこ》るのだろうけど。 「だから、今度二人で旅行に行きたいの」 「うん、そのうちね」  機会がないことは確定しているのに、平気な顔をして約束する。  面白味のない虚言《きょげん》だ。  現実味というものに溢《あふ》れすぎた毎日を嘘《うそ》で艶《つや》やかに彩《いろど》るのがフィクションなのに。  落葉を踏《ふ》んで歩く。  嘘を吐《は》き出しながら、生き続ける。  マユの家に戻《もど》ってきた。  居間に入る。  そういえば、あの子達はどうしていたんだろう。干《ひ》からびてないだろうな。 「まーちゃん、お昼ご飯作ってくれる?」 「うん、いいよ!」  マユを台所に行かせて、早足で奥へ向かって襖《ふすま》をスライドさせた。  三日|離《はな》れて、慣れが薄《うす》れたのか悪臭《あくしゅう》が鼻と目に染《し》みる。 「あ……」  身を寄せ合っていた少年少女の合わせて四つ、無垢《むく》の光を湛《たた》える目が僕を見上げた。  救いを見るようなその眼差《まなざ》しに、たじろぎそうになる。  襖を掴《つか》んで身体《からだ》を支え、目を背《そむ》けたくなる衝動《しょうどう》に抵抗《ていこう》して明るい声をあげる。 「いやー朝帰りどころか外泊《がいはく》までして奥さんに」「お帰りなさい!」  僕が襖を開ける勢いより強い挨拶《あいさつ》をされた。  足|枷《かせ》を限界まで引っ張り、足下《あしもと》に二人が近寄ってくる。 「ねぇ、どうしたの? ちっとも部屋に来てくれなかったけど」  足首を掴む杏子《あんず》ちゃんは後一押しで鳴咽《おえつ》を漏《も》らしそうで、涙腺《るいせん》が危《あや》うい。や、止《や》めろよう。おどおど。似合わないのでそれ以上は妄想《もうそう》しなかった。 「んー、部屋に来なかったというか、ここにいなかったんだな」  どうどう、と二人をなだめながらその場で腰《こし》を下ろす。そして尻《しり》を下ろすや否《いな》や、二人に飛びかかられた。一瞬《いっしゅん》、意識が切れた。  油断した? このまま、首を……などと警戒《けいかい》した時点で、人間失格のそしりを免《まぬが》れない。  ただ抱きつかれただけだった。  正面から堂々と、二人は垢《あか》だらけの頬《ほお》を胸に擦《こす》らせてくる。 「……………………………………」  この場面をぶち壊《こわ》したくないから、言わないけどさ。  もの凄《すご》く、不快な臭《にお》い。  どぶ川に納豆《なっとう》を氾濫《はんらん》させたような、絶望的な臭い。  鳥肌《とりはだ》だけは隠《かく》しようがない。 「なななんだいキミタチ、ワタシは食べてもオイシクナイゼ」 「だ、だって出てっちゃったのかなって……」  照れ顔の杏子《あんず》ちゃん。健全な妹を持った錯覚《さっかく》。  媚《こ》びるような上目遣《うわめづか》いで僕を見上げる浩太《こうた》君。 「どこ、行ってたんですか?」  新妻《にいづま》みたいなこと聞くんじゃねぇ!  心の内で堰《せ》き止めておいた。 「それはまた後で話すとして……」  好ましくない空気で深呼吸を実行して、肺を汚《けが》す。  さて。 「ご飯は貰《もら》えてた?」 「はい。普通《ふつう》に美味《おい》しくいただきました」 「なんかね、みーくんに怒《おこ》られたくないし、ってぶつぶつ言ってた」  杏子ちゃんの声|真似《まね》は似ていた。やはり精神|年齢《ねんれい》の近い者同士、波長が合うのかも。  けど、僕って誰《だれ》かを怒ったこと、あったか?  優《やさ》しさや温情といったものを滅多《めった》に持たないけど、それに応じて負の感情も凍結《とうけつ》している。怒ることも妬《ねた》むことも無縁《むえん》になっている。  普通の人が工芸品ならプラスチック製品に該当《がいとう》する自分が嫌《きら》いじゃなかったりする。  ……ちゅーとはんぱだけどさ。 「ねぇ、みーくんって、えっと……」 「うん、僕のことだよ」  杏子ちゃんが僕をこいつ呼ばわりせず、迷《まよ》ってくれていたので助け船を出す。  杏子ちゃんは程《ほど》良く軟化《なんか》した表情で、「そっか、『み』がつくんだ」と納得してくれた。 「ふぅん、みーくん……みーくん」  みーくんを舌《した》の上で転がし、賞味している杏子《あんず》ちゃんを眺《なが》めながら、一度深呼吸した。 「とにかくこれで、懸念《けねん》は一つ消えたと」  残るは、もう一つ。  この空気の緩《ゆる》い誘拐《ゆうかい》事件に了《りょう》を添《そ》える為《ため》の手段。  この子達を『何とか』して、事件を『どうにか』して、マユをただの女子高生にすること。  寝惚《ねぼ》けていた頭のリハビリを兼《か》ねて、一つ真剣《しんけん》に悩《なや》んでみる。  悩む。  思考の欠片《かけら》が溢《あふ》れかえり、幻視《げんし》を目撃《もくげき》しそうなほど頭を使う。  脳|細胞《さいぼう》が沸《わ》き立ちそうなほど、熱が額を中心に頭部へ集《つど》う。  その最中、デパートの屋上で辿《たど》り着いた解決法をふと思い返す。  家出と、殺人と、誘拐《ゆうかい》。  自由落下した際に手放していた閃《ひらめ》きを手繰《たぐ》り寄せて、反芻《はんすう》し、二人を眺める。 「………………………………………」 「あの、おにいさん? 眉間《みけん》にすごく皺《しわ》寄ってますよ」  人を物として利用するのは最上級に人でなしだと、大概《たいがい》は思うのかも知れない。  じゃあ、大切な誰《だれ》かを助ける過程で他《ほか》の誰かを道具|扱《あつか》いすることは、そんなに駄目《だめ》なのか。  僕は自分の為《ため》に、マユを最優先したい。  ……だから僕は、この子達を、『使う』と決めたんだ。  肩《かた》と眉間を解放して、大きく、長く、濁《にご》った息を投棄《とうき》する。  そうして、空になった体内に残ったのは、後ろ向きな決意。  失ってやる。  失わせる為に、尽力《じんりょく》してやる。  誘拐犯と誘拐された人間と殺した人聞と殺された人間と殺していく人間を。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 下準備『卜』 [#ここで字下げ終わり]  退院した翌日《よくじつ》、有給|休暇《きゅうか》の身の上を活用し、朝から外出して所用をこなしてきた。その際に壁《かべ》をよじ登ったり監視《かんし》の目をくぐり抜《ぬ》けての人工物アスレチック、またの名を忍者《にんじゃ》ごっこする羽目になり、二度|寝《ね》を要求する疲労困憊《ひろうこんぱい》の身体《からだ》を引きずってマンションに帰還《きかん》した。  部屋には物音一つない。マユは言うまでもなく、浩太《こうた》君達も僕と深夜まで遊んでいたからまだ夢に浸《ひた》っている。  テレビを点《つ》けてソファで横に倒《たお》れ、いつの間にか僕の意識も陥落《かんらく》された。  その最中、滅多《めった》に見ない夢で謎《なぞ》のババ様と話して自身の幸せを悟《さと》ったけど、昼に起きたら忘れた。  この日はそのまま、半日ぐらいしか活動しない理想的な休日を送った。  明日は本番なので、今日はこれでいい。  更《さら》に翌日。前日の睡眠《すいみん》過多が祟《たた》って、起床《きしょう》時から頭痛に苛《いじ》められる。  今日は今年で一番|忙《いそが》しい日になるのに、身体が気怠《けだる》い。 「……ま、平気か」  疲弊《ひへい》を心が感じないようにすればいい。腐《くさ》った死体ではなく、泥《どろ》人形になるということ。  簡単すぎて、反吐《へど》よりは涙《なみだ》が出そうだった。  だから(全く繋《つな》がってないけど)今日から再開される授業も、休むことにした。  起き抜《ぬ》けに、マユが惰眠《だみん》を貪《むさぼ》る寝室《しんしつ》を物色する。机の引き出し、クローゼットのダンボール箱を総当たりで探索《たんさく》する。探偵《たんてい》志望の女性に一任したいほど、億劫《おっくう》な作業だ。  それから一時聞ほどの家捜《やさが》しで、お目当ての道具を発見した。足|枷《かせ》の鍵《かぎ》だ。それが玄関《げんかん》の下駄《げた》箱に置いてあった理由は、素人《しろうと》には推理《すいり》不可能なので黙殺《もくさつ》した。  鍵を確かめに浩太君達の部屋を訪れる。二人は既《すで》に起きて、手垢《てあか》を付けすぎた借り物の漫画《まんが》を読んでいた。僕が入ってきたので、その手を休めて挨拶《あいさつ》をする。 「おはよう、おにいちゃん」 「……ふうむ」  呼ばれても感慨《かんがい》はないものだ。  二人の前で屈《かが》み、浩太君の足に装飾《そうしょく》されている手錠《てじょう》型の足枷に鍵を通す。鍵穴に綺麗《きれい》に差し込まれ、一捻《ひとひね》り。手応《てごた》えありだ。足首が枷から解放された。本当にこれで、誘拐《ゆうかい》の被害《ひがい》者はこの場所に繋《つな》がれている要素がなくなった。 「え…… あの、おにいさん?」 「今はまだ。けど夜には外すよ」  鍵《かぎ》をかけ直し、二人の顔を見なかったことにして、声を聞かなかったことにして部屋を出た。  カーテンの閉じられた寝室《しんしつ》に行き、ベッドではなく床《ゆか》に座り込んでマユの目覚めを待った。  同日午後九時、僕とマユはベッドに寝《ね》そべっている。  マユは珍《めずら》しくまだ意識を保ち、お互《たが》いにぐてーっとしている。  手持ちぶさたなので、マユの髪《かみ》を指で掻《か》き分け、耳を面に晒《さら》して耳たぶを摘《つま》んでみる。うわ、耳が微弱《びじゃく》に羽ばたいた。  マユは未《いま》だに寝間着で、これから風呂《ふろ》に入って次の寝間着に着替《きが》えるのだろう。  異常である故《ゆえ》に成り立つ無垢《むく》な瞳《ひとみ》を伴《ともな》って、マユが僕に問いかけてきた。 「みーくんは年増《としま》が好きなの?」  モチロンサ! と歯を光らせて親指を立ててほしいのか。 「あの嘘《うそ》つきと仲良いもん。あんな頭のおかしい奴《やつ》と仲が良いんだから、年増が好きってことぐらいしかまーちゃんは推理《すいり》出来ません」  先生が聞いたら不殺の誓《ちか》いを立てていても破る最悪の言い分だ。 「綺麗《きれい》なお姉さんは好きだけど、熟女《じゅくじょ》好きってわけじゃ……」 「早く歳《とし》取りたーい」  先生が聞いたら丑三《うしみ》つ時に神杜の裏手を俳徊《はいかい》し出す願望を口走った。 「わたしはどうしてみーくんと同い年なのかなー。 どうして若いのかなー、どうしてマユなのかなー、どうしてわたしなのかな………? わたしは、私? んん、んんー?」  哲学《てつがく》な問いかけを童謡《どうよう》みたいに詠《よ》み上げていたマユが突然《とつぜん》、眉根《まゆね》を寄せる。目が左に寄り、自分の内面を覗《のぞ》くように遠い目になる。険しく、細い目だ。問題が高度すぎてエラーが発生したのとは次元が異なるらしい。枕《まくら》に横顔を突《つ》っ伏《ぷ》して、頬《ほお》の肉が寄っていること以外は、無縁《むえん》だった理性を感じさせる。 「むー……ぎー、がーー」  生真面目《きまじめ》に奇声《きせい》をあげている。た、叩《たた》けば直るかな。でも噛《か》まれたらどうしよう。  腰《こし》を引かせながら、電波に苛《さいな》まれるマユを見届ける。  マユは五分ぐらい、苦悩《くのう》と奇声を撒《ま》き散らし、やがて憑《つ》き物が祓《はら》われたように動かなくなり、枕に顔を埋《うず》めた。ひょっとして、今のは一般に知られざる儀式《ぎしき》の類《たぐい》ですか?  ぐるりと、四面をずらしたように顔を横に向け、マユが僕を見据《す》えた。 「みーくん」 「なにかね」 「私ね、自分が嫌《きら》い」  抑揚《よくよう》の幅《はば》が狭《せま》い口調だった。教室の御園《みその》マユと二人きりのまーちゃんが混じり合ったような態度に、何故《なぜ》かざらついたものを感じる。 「……なんだよ、急に」  マユは意味と感情のない顔を作成する。 「分かんないけど、今そう思った」 「……ふうん。僕は好きだけどね」  自分か、マユか。どっちのことを指しているのか。はたまた、嘘《うそ》か。  真意などどうでもよく、お茶を濁《にご》せればいい。 「なんで私が私を嫌いか、みーくんは知ってる?」  効果はなかった。マユの目が答えを求めて揺《ゆ》れる。 「さあ? 僕はまーちゃんのことが嫌いじゃないから」  大嘘の返事をした。マユはふうん、と生返事《なまへんじ》をして顔を逆方向へ反転させる。  髪《かみ》が流れ、はだけた肩《かた》を薄《うす》く覆《おお》う。マユの肩は、腕《うで》と異なり傷痕《きずあと》が見当たらない。塩湖《えんこ》のように眩《まぶ》しく、冷たい印象を抱《いだ》かせる白一色。指の腹で押せば、割れてしまいそうなほど。  マユを抱《だ》き寄せる。決して大柄《おおがら》ではない僕の腕の中に、小さな体躯《たいく》は軽々と収まる。 「ねぇ」と声をかけると、転がってこちらを向き、にへらと締《し》まりのない笑い。 「なにきゃなー? ちゅー?」  あ、戻《もど》ってる。丁度いい。 「まーちゃんは、僕のことが好き?」  マユは、微睡《まどろ》むように曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んで頷《うなず》いた。 「みーくんのことが、だーいすきだよ」 「そっか。うん、そっか」  ちきしょい、感動で目から煮汁《にじる》(涙《なみだ》の代理)が溢《あふ》れそうだぜ。 「みーくんはー?」  胸元で丸くなりながら、マユが尋《たず》ね返してきた。考えるまでもない。『隣《となり》のクラスの小口さん素敵《すてき》だね』と意地悪を言う必要が何処《どこ》にあるというのだ脊髄《せきずい》。 「好きだよ」 「えー、だいすきじゃないのー?」 「死ぬほど好きだよ」 「あー、わたしも!」  屈託《くったく》なく微笑む。どちらかというとまーちゃんは、殺じたくなるほど好きって感じだね。 「ねえみーきゅん」  降格か昇格か微妙《びみょう》なうえに、屈辱《くつじょく》的な名称《めいしょう》で呼ばれた。負けじと対抗《たいこう》する。 「なんだいまーたん」  言ってから羞恥《しゅうち》に突《つ》き動かされて遺書《いしょ》の準備に取りかかりそうになった。  マユが僕に擦《す》り寄る。同化でもする気なのか、身体《からだ》を密着させてくる。鎖骨《さこつ》にかかる吐息《といき》がくすぐったい。  マユの唇《くちびる》が開かれるのを、肌《はだ》で感じ取る。 「笑って」 「……んー」  その件につきましては事の重大性について重々承知のうえで考慮《こうりょ》と熟慮《じゅくりょ》の検討を重ねておりまして、つまるところ現在、案件に対して相違《そうい》する意識との会合を設けて早急な結論を出そうと早い話出来もしないのにノーと言えない日本人気質が邪魔《じゃま》して「幸せなら、笑って」 「……な」  喉《のど》と脳味噌《のうみそ》と胸を同時に締《し》め上げられる。  御園《みその》マユが、幸せを尋《たず》ねてきた。  あの人から連鎖《れんさ》するように。  運命級の嫌《いや》がらせだ。  眼球が千切れ落ちそうなほど奥で引きつり、焦燥《しようそう》で焦《こ》げる。  窓の外の景色《けしき》が、病室から覗《のぞ》いたものと混ざり、滲《にじ》んだ水彩《すいさい》画のような異世界へ変異する。 「わたしはー、こうしてるとすっごくほんわかして、みーくんの匂《にお》いがして、しあわせー」  間延びした語尾。目をしきりに瞬《まばた》かせ、欠伸《あくび》の涙《なみだ》を流す。マユの意識が夢と溶《と》け合い、境界線を失っている。 「うー、なんか眠《ねむ》い……」  僕は、この子と過ごす時間に何を覚えていたんだろう。 「寝《ね》ちゃいなよ。やっぱまーちゃんは寝てる方がそれらしいよ」  心がニートな僕には、与《あた》えられた感情らしきものを分別して吐露《とろ》することは出来ない。 「でもー、まーちゃん子供じゃないから、夜更かしする……」 「そういうことを言っちゃうのが子供だと思うよ」  山積みにして放置してある、心を埋《う》め尽《つ》くす想《おも》いのジャンクは喜怒哀楽《きどあいらく》のどれに際立《きわだ》っているというのか。 「むー、子供扱《あつか》い……」  自分以外の誰《だれ》が、それを識別することが出来るというのか。 「はい、夢の世界に旅立っておいで」  ……分かる、今ならきっと分かるけど。  僕は、答えを出すことを、先送りにする。  どうせすぐ先に、牢獄《ろうごく》の時間が待っているんだ。 「ねー、にっこりしてよー」 「……ああ、うん」  鏡の前ではないから、成否《せいひ》は掴《つか》めない。  マユは目を開けず、そのまま意識を途絶《とだ》えさせた。  幸も不幸もないような、当然の寝顔《ねがお》。  この状況《じょうきょう》を当然として、日常として受け入れていた。 「……さて」  睡眠《すいみん》薬をこの子に使うことは恐《おそ》らく、今がただ一度の機会となるだろう。お茶に一服盛るという行為《こうい》は他《ほか》に類のない刺激《しげき》があり、癖《くせ》になる人がいても不思議じゃないというのが感想だ。かつての毒殺を仕掛《しか》けた下手人は内心、病みつきになっていたのではと推測《すいそく》する。  マユを転がしてシーツで簀巻《すま》きにする。白い春巻きに仕立て上げ、一仕事を終えてからベッドを下りる。  すぐには移動せず、彼女の寝顔を眺《なが》める。  ジッと見て、海馬《かいば》に焼き付ける。  思い出になるように。 「……嘘《うそ》つきでごめん」  もっとも心が籠《こ》められる挨拶《あいさつ》を告げる。  部屋を出て、扉《とびら》を閉じた。  薄暗《うすぐら》いリビングを通過し、予告通り枷《かせ》を取り外しに奥の部屋へ入る。  二人の、身体《からだ》とは裏腹に汚《よご》れていない瞳《ひとみ》が瞼《まぶた》を押し退《の》けて大きく露出《ろしゅつ》し、僕の行いに疑問をぶつけてくる。二人を自由にした後、立ち上がってからそれに独白めいた言い方で答えた。 「帰るんだよ、君達の家に」  そして、終わらせる。  まず、深い意味はないけど垢《あか》を洗い落としてもらうことにした。 「はい、バスタオル。君達の服は今|洗濯《せんたく》してるから、風呂《ふろ》からあがったらこのシャツでも着て待ってて」  手早く、浩太《こうた》君に着替《きが》えとタオルを渡《わた》す。二人は僕の行動に納得《なっとく》いかないのか、しきりに首を傾《かし》げている。 「あの、おにいさん。ぼくたち、えっと」 「なんだ、一緒《いっしょ》に入るのが恥《は》ずかしいとか? 兄妹《きょうだい》は六|歳《さい》から十二歳までは一緒に風呂へ入ることが許されるんだ。胸を張れ」  まくし立てるように早口で打ち切り、二人をバスルームへ向かわせる。振《ふ》り向いて立ち止まろうとする二人の背中を押して風呂《ふろ》場に放《ほう》り込み、「一時間以内によろしく」と告げて扉《とびら》を閉めた。 「ちょっとー! 話聞きなさいよ!」 「ことわーる。頭を冷やしてから来い」 「これ、お風呂ですよー!」  漫才《まんざい》をしている場合ではないというのに。  二人を浴場に閉じこめてから、玄関《げんかん》とリビングを繋《つな》ぐ短い廊下《ろうか》で座り込んでいた。  灯《あか》りは点《つ》けず、暗闇《くらやみ》に尻《しり》を付け、黒い空間を吸い込む。それだけで、高ぶっていた心が静まる。煙草《たばこ》を吸うのは、こんな感じなのだろうか。  瞼《まぶた》の開閉を不規則に繰《く》り返し、内側の闇と、周囲を取り巻く暗がりの僅《わず》かな差異を楽しむ。外より、瞼の裏側の方が黒色が濃《こ》い。それは当たり前のことかも知れなかったけど、自分を表すのに都合がいい気がした。  やがて目が慣れて、二つの闇が質を大きく違《ちが》える。そうなると味気ないので目を閉じ、噛《か》み尽《つ》くしたガムを吐《は》き出すように外の世界を瞳《ひとみ》から追い出した。  閉ざされた視覚を補うために、触感《しょっかん》が内外間わず鋭敏《えいびん》になる。  床《ゆか》の冷たさ。空気の素っ気なさ。ひりつく喉《のど》。 「…………………………」  回想が自動的に起動された。  極々《ごくごく》|平凡《へいぼん》な家庭に生まれた。家は田舎《いなか》の土地持ちで無駄《むだ》に敷地《しきち》が広い。酔《よ》っ払《ぱら》った父親がよく一緒《いっしょ》に飲んでいた酔いどれ爺《じじい》を泊《と》まらせに連れてきていたが部屋はいつだって余裕《よゆう》があった。二階建てでB1まである。そんな家での五人家族の暮らし。兄は二つ年上で子供の頃《ころ》から髪《かみ》を金色に染めていた。派手な外見ながら外では遊ばず本の虫で蔵書を収めた部屋に布団《ふとん》を置いていた。彼が食卓で本の内容以外の話をしたことはない。妹は四つ年下で僕たちとは母親が異なる。癇癪《かんしゃく》が酷《ひど》かった為《ため》に家族内でいつも煙《けな》たがられていた。お守《も》りはほとんど僕がこなしてその返事は暴力が大半だった。彼女に一度も笑顔《えがお》を向けられたことはない。母親は二人。最初の母は僕を産んでから三年後に死んだ。理由は覚えていない。ただ顔が背中を向いて横たわっていた母親の姿を朧気《おぼろげ》に記憶《きおく》している。腕《うで》と足の関節も不自然に追加されていたはずだ。それから二年後にお腹《なか》を大きくした女性が家で暮らすようになった。式も挙げずに婚姻《こんいん》だけした女性は三ヶ月後に妹を産んだ。兄は妹と妹の母親には一言も口を利《き》かず段々と孤立《こりつ》していった。そして夏休みを控《ひか》えた終業式の最中に体育館の天井《てんじょう》から飛び降り自殺を果たした。葬式《そうしき》には僕と父しか参加しなかった。妹と妹の母親は気兼《きが》ねなく家で暮らし始めた。兄が死んだ時に五|歳《さい》を迎《むか》えた妹は毎日外へ遊びに行って泥《どろ》と土と擦《す》り傷にまみれて帰ってきた。妹は山の動物を殺す遊びに熱中していた。そしてある日を境に帰ってこなかった。僕と妹の母親だけで供養《くよう》した。そうして家には僕と父親と妹の母親だけになり、  八年後には、僕だけが残った。 「嘘《うそ》だけど」  いつもの虚言《きょげん》です。この文章は全《ずべ》てフィクションです。如何《いか》なる現実とも関係御座いませんことは明確です。真に受けないように。 「……嘘だけど」  嘘を正す嘘をつくのは、良い気分じゃない。  けど、嘘に出来ないことだってある。  たとえ本人が改竄《かいざん》し、でっち上げの真実を尊んでいたとしても。  当事者からすれば、ただの大嘘である。  例えば、彼女と僕。 「私ね、自分が嫌《きら》い」  口調を気持ち悪く真似《まね》てみた。本当に、気味が悪い。 「そうだろうね、御園《みその》マユ」  なにせ、自分が嫌いなものが、自分自身であるのだから。  御園マユは人殺しだ。  かつての誘拐《ゆうかい》事件を、犯人その他を殺人事件して解決したのがマユだ。  最初は、自分の両親。  誘拐犯のオヤジはどうしてあんな行いに出たのか。いや、それは誘拐という狂行《きょうこう》に踏《ふ》み切ったところから、本人以外には理解不能なんだろう。ただ、僕は一つだけ、そんな犯人を見て理解したことがある。  人間が最高に物事を楽しんでる時の笑顔《えがお》は、醜悪《しゅうあく》の一言に尽《つ》きるものだと。  一年近く監禁《かんきん》が続いていれば、人を傷つけることが前提の遊戯《ゆうぎ》なんて一通りやり尽《つ》くしてしまう。飽《あ》きていたのかも知れない。で、皮肉にも犯人とマユのご両親は仲良しさんだった。感情が壊死《えし》寸前のマユをもっと遊び尽《つ》くすのに、丁度良い刺激剤《しげきざい》になると、犯人は思ったんじゃないだろうか。  人の良いご両親を自宅に招き入れ、身柄《みがら》を確保。そして、誘拐犯はマユに両親を殺すように強制した。そうしなければ、僕とマユの両方を殺すと脅《おど》して。久方ぶりに感情を高ぶらせたマユは当然のように泣いて嫌《いや》がった。その期待通りの反応に犯人は大層|興奮《こうふん》していた。けど十秒で鬱陶《うっとう》しくなったのか、マユの腫《は》れ上がった顔面を思い切り蹴《け》り飛ばした挙げ句、用意していた肉切り包丁で太股《ふともも》を赤く切り裂《さ》いた。マユ本人より、両親の悲鳴の方が僕の耳には響《ひび》いた。  復活してしまった感情は痛みの意味を思い出し、マユには犯人の指示を全《まっと》うするしか保身の方法がなかった。そして、そのあたりで僕は目を覆《おお》い隠《かく》された。誘拐《ゆうかい》犯の妻の良心に基づいて。見ちゃ駄目《だめ》だって。だけどその覆いは不完全で、指の隙間《すきま》からその光景がうっすらと覗《のぞ》けてしまった。それを指摘《してき》する唇《くちびる》と歯は震《ふる》えて、使い物にならなかった。  誘拐犯が、身体《からだ》の部位を下劣《げれつ》な声で叫《さけ》ぶ。そうすると、一拍《いっぱく》置いて悲鳴と、鈍《にぶ》い音が重なって聞こえてくる。そして、目を覆わなければ心がどうにかなってしまいそうな、非現実な包丁の使われ方。それから目を逸《そ》らすことも、瞑《つぶ》る余裕《よゆう》さえも僕からは失せていた。  僕まで叫び出しそうなぐらいに恐怖《きょうふ》にかられて、だけどうるさかったらこっちも殺されてしまうかと思って、必死に堪《こら》えた。下唇が千切れそうなほど前歯を食い込ませて、両手で耳を塞《ふさ》いだ。それでも、響《ひび》きが減っただけで音を完全に遮断《しゃだん》することは出来なかった。唇から流れてくる血の味にも恐《おそ》れを抱《いだ》いた。  そして、複数の悲鳴と、最後に聞き慣れた醜《みにく》く野太い声がして、音が一旦止《いったんや》んだ。  全《すべ》ての音が止んだ時、効果を果たせていない目の覆いが取れた先にあったものは、床《ゆか》に倒《たお》れ伏《ふ》した誘拐犯共、原形を留《とど》めていないマユの両親、そして液体を身体と包丁から滴《したた》らせた猫背《ねこぜ》のマユ、計五名の姿だった。  どうしてそんな景色《けしき》が広がっているのか、僕は目で見て耳で聞き取っていたのに、理解することを心が頑《かたく》なに拒否《きょひ》した。  マユが、殺人という手段で事件を終わらせた。  それをマユは覚えていない。  僕に刃《やいば》を向けたことも。 「……どうして死ななかったんだろうね、僕は」  僕は反則で生き残った。庇《かば》い、助けてもらったのだ。  誘拐犯の妻に、だ。 「……………………………………」  自分のために僕の身代わりとなった人。  自分のために僕を傷つけた人。  そして自分のために、自分を偽《いつわ》る人。 「みんなみんな、死にました」  僕の目の前で。  どいつもこいつも何かを噴《ふ》き出して。  血とか涙《なみだ》とか心とか。  そして何事もなく僕は生きている。  めでたしめでたし。 「……………………………………」  活《い》かされ続けている。  他者の悪意に襲《おそ》われ、別の人間に庇《かば》われ、呪《のろ》われ、生き続けている。  何の価値もない生き方で。  僕はいつだって道化を演じようとする。  対話を茶化し、哲学《てつがく》をあざ笑う。  そうして、自分が現実を一つでも多く知り、世界を上位の視点から見下ろしているように、思わせようと躍起《やっき》になっている。  余裕《よゆう》を傍《かたわ》らに控《ひか》えさせているように、暗示をかける。  そんな生き方を、ずっと続けてきた。  一度でも、人に致命《ちめい》的な恐怖《きょうふ》を抱《いだ》いた時から。 「……怖《こわ》いよ」  僕は人が怖い。  黒い部分に触《ふ》れすぎて、同族に恐怖を抱いた。  当然、怖いものは嫌《きら》い。  だから僕は人が嫌いだし、自分も人である以上はその対象だけど、それじゃ生きていけない。  本当に嫌いであるなら、自殺を選ぶしかない。  じゃあ、どうするか。  人を好きになればいい……けど、なる前に、死ぬと思う。  だから嫌うという感情を凍結《とうけつ》するしかない。  感情を永眠《えいみん》させてしまえばいい。  傷つけられることに負を覚えず、傷つけることに躊躇《ためら》わない。  聖人君子であり、危険人物でもある存在。  たとえそれを周囲の健全な人聞が、人と認めなくてもよかった。  異質に位置すると思わせられればよかった。  そういういきものに、なろうとした。  肩《かた》を抱《だ》く。震《ふる》えを忘れた肩は、生物のパーツとしての職務を放棄《ほうき》しているようだ。 「……あー、ヒキコモリになりてー」  折った膝《ひざ》を抱《かか》えて後ろに重心をかけ、ダルマになって硬《かた》い床《ゆか》の上を転がる。  吐《は》き気を催《もよお》すほど水分を摂取《せっしゅ》して待つこととどちらが幸せに見えるか、誰《だれ》か哲学的に教えてくれないものか。  洗い立ての靴《くつ》を履《は》かせ、湯上がりの二人を連れて外へ出た。  外は予想より寒気が覆《おお》っていた。待望の外に出た二人は異議を顔一杯に広げて、玄関《げんかん》の前で立ち竦《すく》む。 「久しぶりの外はどう?」  自息を吐《は》けそうな空気を吸い込みながら、僕は無理矢理に話を振《ふ》った。 「いつの間にか冬っぽくなってます」  抑《おさ》え気味に浩太《こうに》君が答えた。確かに、夜に関してはもう、秋がなりを潜《ひそ》め始めている。 「ねぇ」  杏子《あんず》ちゃんが、僕の服の袖《そで》を引っ張る。反応すると、俯《うつむ》いていた顔が鼻を啜《すす》りながら僕を見上げた。 「ほんとに、帰らないとだめ?」  弱々しい質問。  縋《すが》るような懇願《こんがん》するような、そんな問いかけ。  浩太君も僕を見上げ、何かしらの期待を向けていた。  正直、困った。 「そんなに帰りたくない?」  杏子ちゃんは頷《うなず》いた。 「あんな座敷牢《ざしきろう》みたいな部屋にいたい?」  杏子ちゃんはもう一度、頷いた。  更《さら》に困る僕。  その理由を知っているが故《やえ》に、これ以上かける言葉がない。  だから、拒絶《きょぜつ》するしかない。  ……また、思いを積み上げて。 「残念だけど」  僕は、頭を振《ふ》った。 「帰らないと、駄目《だめ》だ。あの部屋は君達の家じゃないんだ」  そして僕の家でもない。  意気消沈《しょうちん》した二人の背中に手をやりながら、エレベーターへ足を向けた。  一階へ下り、寒々しいホールを抜《ぬ》けて、夜道に立つ。  大気の流動が活発なのか、見上げた夜空は雲が急速に流れていた。  寒さに身体《からだ》を震《ふる》わせ、そして意識を奮《ふる》わせる。  さあ、行こう。  これを、最後の殺人にしよう。 [#改丁] [#ここから3字下げ] 終人 『カレルサツジン』 [#ここで字下げ終わり]  取り逃《に》がした。  初めての事態に、焦燥《しょうそう》と歓喜《かんき》がせめぎ合う。  行動を予《あらかじ》め測っていたように、二人は僕を確認《かくにん》もせずに逃亡《とうぼう》を図った。  その背中を、僕は驚愕《きょうがく》と共に追撃《つけげき》した。  愉快《ゆかい》で痛快な鬼《おに》ごっこ。  極《ごく》小さいライトの明かりに浮かび上がる、二人の子供の青白い肌《はだ》。二人は振《ふ》り返りもせず、一目散に駆《か》けている。僕を誘導《ゆうどう》している様子ではない。  今夜出てきたのが失敗か、それとも最良の経験を僕に与《あた》えるか、賭《か》けを行いたくなった。  二人は神社に飛び込む。砂利《じゃり》を踏《ふ》む音と、自身の呼吸音が静寂《せいじゃく》を破棄《はき》する。鬼ごっこより隠《かく》れんぼが好きな僕としては、そろそろその背中を捉《とら》え、ムイシキに身を委《ゆだ》ねたい頃合いだ。しかし、周囲の警戒《けいかい》を怠《おこた》らずに速く走るのは難しい。よって二人の足を止める方が現実的だ。  ナイフを鞘《さや》から引き抜《ぬ》き、二人の腰辺《こしあた》りを狙《ねら》って投擲《とうてき》した。境内《けいだい》に向かっていた少年の足下《あしもと》にナイフは飛びかかり、僅《わず》かに掠《かす》めて砂利に撥《は》ね飛ばされる。けれど、それで充分《じゅうぶん》。  切っ先に付けられた痛覚で少年が歩調を崩《くず》す。それを懸念《けねん》した少女が少年を気にかけながら振《ふ》り向こうとして、右足と左足を交差させて転倒《てんとう》した。手を繋《つな》いでいた少年の方も、体勢の崩れに加えて手を引っ張られ、受け身を取りながら砂利に倒《たお》れた。  その間に距離《きょり》を詰《つ》めるのは容易《ようい》だった。屈《かが》み、少年の足首を手で押さえながら、もう一振りのナイフを取り出し、振り上げ、そして少年達と対峙《たいじ》する。  少年は瞳《ひとみ》を揺《ゆ》らしながら、視線を逸《そ》らすことはなかった。呻《うめ》きも、悲鳴もあげない。命乞《ご》いさえしない。恐怖《きょうふ》で身が疎《すく》んでいる、という楽観的判断でいいのだろうか。身体《からだ》を小刻みに震《ふる》わせているのは寒気だというオチがあるかも知れない。僕は僅《わず》かに戸惑《とまど》い、抑圧《よくあつ》されていないにも拘《かか》わらず、少年の側《そば》から離れない少女に視線を移した。  どうして逃げない? 僕の問いに、少女は口を開かない。一文字に結んだ唇《くちびる》は僕との交流を拒絶《きょぜつ》していた。一体この子達は、何を考えているのだろう。  ナイフを振り下ろすことを躊躇《ためら》う。このままムイシキに託《たく》して、未決|終了《しゅうりょう》を迎《むか》えるのは味気なく気味が悪い。二人に溢《あふ》れる異質を突き止めたい。  君達は殺されるんだぞ。そんな間抜けな台詞《せりふ》を口走ってしまった。二人は反応せず、ただ僕の目を覗《のぞ》き込む。僕が行う品定めの視線に何処《どこ》か似通っているそれは、口ほどに物を語るはずの目とは思えないほど無感情だった。  いい目だ、と素直《すなお》に賛辞の気持ちが湧《わ》く。特に少女の瞳《ひとみ》。鋼《はがね》色のような、揺《ゆ》れの存在しない瞳は、装飾《そうしょく》品として加工したくなるほどの強い欲求を引き出してくる。  この少女が、無性に欲しくなった。  葬儀《そうぎ》屋に引き渡《わた》すのが惜《お》しくなる。  無理矢理口を割らせて、声を張り上げさせたい。  首だけ切って持ち帰ってはどうだろう、虹彩《こうさい》が濁《にご》るまでは意思の疎通《そつう》が出来ないだろうか。いやいや、それは駄目《だめ》か。この瞳を濁らせるなど、僕には傍観《ぽうかん》出来るはずもない。  好奇《こうき》心より、欲望に気持ちが傾《かたむ》き始めた為《ため》か、視界で捉《とら》えていた異質が失せ始めている。ただ無口な少年と少女に変わっていく。これは意識の変化。もう一段の変化は、本質的に、肉塊《にくかい》へと変貌《へんぼう》させる。両方の瞳を気に入ったけど、少年の方は徹底《てってい》的に破壊《はかい》してみることにした。間引きは菜園の基本。二つ芸術品があれば、片方を際立《きわだ》たせるために、もう片方を無惨《むざん》に散らすことも、効果的だ。  さて、そろそ跳《は》ねた不意の悪寒《おかん》に導かれて横へ。  直後、風切り音を背後に聞いた。右|腕《うで》を振《ふ》り、ナイフで牽制《けんせい》を行いながら距離《きょり》を取る。  咄嵯《とっさ》にライトを向け、前方を確かめる。その場で拾ってきたような長さ三十センチ程《ほど》の木の棒を握《にぎ》って、今さっきまで僕が立っていた場所にそいつはいた。真っ自のパーカーに、脱色《だっしょく》の進んだ青色のジーンズを穿《は》いた全体的に色彩《しきさい》の薄《うす》い男だった。 「はーい、逃《に》げて逃げて」  そいつは、苦い顔で交通整理の人みたいに棒を振り、二人を茂《しげ》みの方向へ誘導《ゆうどう》して逃がした。僕は未練を感じながら二人を見逃《のが》し、灯《あか》りを消してそいつと対峙《たいじ》した。  そいつの目はお世辞にも澄《す》んでいるとは言い難《がた》い。けどそいつの雰囲気《ふんいき》、顔の作りと同調し、異質さは隠蔽《いんぺい》されていた。……違《ちが》うか、全部が異様だから、強調されていないだけだな。 「年下|趣味《しゅみ》も節度を弁《わきま》えろよ、みーくん」  表情を素面《すめん》に戻《もど》し、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といったようにそいつは言《い》う。  油断と区別がつかないほどの、徹底《てってい》的な余裕。  何だよ、お前。 「つれない質問だな、これでもご町内では用水路と呼ばれるほどの人気者なのに」  なんか、微妙《びみょう》にイジメの臭《にお》いがする異名だな。 「失敬な。君は用水路の価値を知らないからそういうことが言えるんだ。そもそも、用水路を説明出来るのか君は。用水路のない風景の味気なさに耐《た》えられるのか、用水路の潤《うるお》いぶりを君は知っているのか!」  ……分かったよ、用水路。 「ハッ、どぶ川が!」  勝ち誇《ほこ》られた。僕が言うのもなんだけど、こいつは病院で大人しくしてるだけで社会|貢献《こうけん》できる人種だと思う。  そいつは棒を構えながらも、距離《きょり》を詰《つ》めようとはしない。出方を測っているのか、或《ある》いは経験がないのか。 「まだ慌《あわ》てる時間じゃないだろ、みーくん。そう睨《にら》むなよ」  口はよく動く奴《やつ》だ。君が僕を呼び出したのか? 「……ランプの魔神《まじん》じゃないんだから。殺人鬼《き》は呼ばんて」  不思議そうにしながら、手を振《ふ》って否定した。……こいつじゃないのか? 「しかし、本当にひのきの棒で戦う日が来るとは」  そいつが肩《かた》を落として嘆《なげ》く。せめて毒針が欲しい、と小声で付け足す。  そいつは明らかに喧嘩《けんか》慣れしていなかった。どう動き、先手を取るべきかも分かっていない。だから僕から近づいてやった。そいつは顔色を変えることはないが、明らかに身体《からだ》を緊張《きんちょう》で強張《こわば》らせる。  そいつが牽制《けんせい》に振《ふ》った棒が僕の眼前を掠《かす》め、振り切られる瞬間《しゅんかん》に踏《ふ》み込んで前へ出た。そいつの無防備な胴体《どうたい》に、ナイフを突《つ》き出す。鳩尾《みぞおち》を狙《ねら》った一撃《いちげき》は、そいつがその状態から肉|離《ばな》れを起こしそうなほど身体を捻《ひね》り、脇《わき》を掠《かす》めるだけだった。そのままそいつは側転《そくてん》するように離れ、距離を取る。顔に恐《おそ》れは一切《いっさい》ないけど、肩の上下が激しくなっていた。  また僕から距離を縮める。殺しはしない、戦意と行動を削《そ》ぐ。そいつは僕の攻撃《こうげき》を避《さ》けようと後手に回る。視線は右手のナイフに注目し、棒で弾《はじ》こうと腰《こし》を落として構える。僕は左手を下手から振り上げた。  そいつの注意が何の疑いもなく左|腕《うで》に向く。短くバックステップを取り、視線を顔ごと上に向けてしまう。僕は右足を鋭《ずるど》く踏み込み、障害《しょうがい》なくそいつの左腕の肩《かた》から肘《ひじ》を繋《つな》げる肉に刃《は》を突《つ》き立てた。骨から肉を削ぎ取るように深々と突き抜《ぬ》ける。そいつは並びの良い白歯を食いしばり、悲鳴をあげない。それぐらいなら攻撃する、と目が語っていた。  そいつが不安定な身体を捻って棒を横に払《はら》ってくる。僕はナイフを抜き取りながら屈《かが》んで回避《かいひ》し、ナイフを根元までそいつの右太股《ふともも》に突き入れ、引き裂《さ》いた。  これで大勢は決した。  そいつは口端《こうたん》から蟹《かに》みたいに泡《あわ》を吹《ふ》き零《こぼ》すほど奥歯を噛《か》み合わせて悲鳴を堪《こら》え、意識が遠のいたように足腰が崩《くず》れる。受け身も取らずに顔面から倒《たお》れるそいつを支えるなんて紳士《しんし》な振る舞いはせず、人体の内面を覗《のぞ》かせた傷|痕《あと》から手早く凶器《きょうき》を抜いて一歩下がる。引き抜く痛みと顔面を打撲《だぼく》した二つの衝撃《しょうげき》により気絶から復帰したのか、涙目《なみだめ》になりながらもそいつは顔を上げる。 「……もう慌てる時間じゃないな、みーくん」  いつ慌てればよかったんだ。  そいつ自身は別段慌《あわ》てず、僕、というか空を見上げて嘆息《たんそく》した。 「参った……。痛みにはある程度|耐性《たいせい》があっても、人体の仕組みは曲げられないか。別にヘタレてるわけじゃねえぞ、千手ピンチなだけだ」  そいつは、体育館で朝礼を聞く時のように、ぺたりと座り込んで後頭部を掻《か》く。痩《や》せ我慢《がまん》にも見えるその態度が、妙《みょう》に似合っている。 「大体さあ、何で文系の僕が殺人|鬼《き》と戦闘《せんとう》なんかしないといけないんだよ。こういう荒事は黒マントの糸使いの役割だろ……」  愚痴《ぐち》り出した。まるで僕は眼中にないように、ぶつぶつと独《ひと》り言《ごと》を漏《も》らしている。 「そう思わないか?」  と思ったら、同意を求めてきた。僕は肩を疎《すく》め、それを返事とする。 「知らないのか? これだから現代っ子は、活字|離《ばな》れを嘆《なげ》かれるんだ」  今、鏡を見れば僕は相好《そうこう》を崩《くず》しているかも知れない。こいつとの会話は、取り急いだ殺害意欲を減退させる。場の危機感を、そいつがいるだけで緩和《かんわ》してしまっているようだ。  殺されようとしている奴《やつ》に命|乞《ご》いどころか軽口を叩《たた》かれるなんて、思いもよらなかった。  面白さと興味の混合物が、こいつとお話ししようぜと命じてくる。それについ従ってみた。  ……で、結局、君はどうしてここに現れてちょっかいをかけたんだ? 「知りたいか?」  僕は素直《すなお》に頷《うなず》いた。だって君はもしかしたら、同類かも知れないんだ。  そう言うと、そいつは当たり前だうと蔑《さげす》んできた。 「じゃあ何か、君と僕のどっちかは人間じゃないっていうのか? ああ、そりゃいい。君は殺人鬼と評判だからな。で、僕も鬼《おに》ってのか? 冗談《じょうだん》じゃない、鬼二人で鬼ごっこが出来るかよ」  そいつの言葉は、独特の軽さを持って僕に届く。そうだよな、と思わず納得《なっとく》してしまう説得力があった。  けど、人間にも、色々いるだろ。 「そりゃいるさ。でも種類を分けられるほど差があるとは思えないね。現在的には卵を口から産む人間はいないし、血が青色の奴もいない。逆にどいつも赤い血液が流れて、口から嘘《うそ》ばかりついている。つまり同類なんて格好つけた言葉使わずに、同好の志を探してるって言えばいいんだよ」  君の意見は、参考になるけど……話、道草しすぎだろ。 「ああ、僕が出しゃばった理由か。正義の為《ため》とか、誰《だれ》かの為とかそんな理由はないよ。僕が言っても格好悪いし、第一もしそう言熔うものなら、その後に一言付け加えないといけないんだ。致命《ちめい》的に情けない言い訳を、一つ」  そいつは、その状況《じょうきょう》を思い浮かべたのか、少しだけ楽しそうに口端《こうたん》を曲げる。けどすぐに、無表情に落ち着く。 「コンビニに行くのが好きなんだ」  唐突《とうとつ》な切り出しだった。僕もだ、と返事をする。 「今日も深夜の散歩ついでに寄ろうとした。で、君がいたいけな少年少女を押し倒《たお》しているのが見えたから、僕も参加させてもらおうと声をかけたんだ」  どうにも嘘《うそ》くさい理由だった。というか、嘘だろう。 「そういえばあの二人を逃《に》がしたから、捕《つか》まるぜ」  そう言ってからすぐに、「どうでもいいけどさ」と、興を削《そ》いだ口調で付け足した。 「ここで殺される僕が心配することでもないし。そう僕は、ここで殺されるわけだ。そこで尋《たず》ねたいんだけど、今までの死体って殺してから解体したのか、解体してから殺したのかどっちなんだ?」  生きてる人間をバラすなんて悠長《ゆうちょう》なことをしていたら、とっくに捕まってるよ。 「そうなんだろうけどね、一応の確認《かくにん》。もし後者の手段を取る気なら、自殺の覚悟《かくご》を固めないといけないから。……ああごめん、今の取り消し。覚悟いらない」  自棄《じき》があればいい、とそいつは投げやりに言った。 「君は人の為《ため》に死ねる?」  無理だね。 「じゃあ自分の為なら死ねる?」  それも、無理だね。 「だよね。人は、何かの対価に死を選ぶなんて出来はしないんだ。……どっこい、僕は違《ちが》う。僕は人の為でも自分のためでも世界平和の為でもなく、何の利害もなく死ねてしまえる。それこそ浮気の現場を目撃《もくげき》されたら、言い訳せず自殺するとか、そんな感じ。ああ、これは一応他人の為かな。いや、逃避《とうひ》だから自分か? まあいいや」  ただね、とそいつは言葉を繋《つな》いだ。 「昔から、死ぬことより怖《こわ》いことがあったんだ」  僕にはそんなものない。そう告げたら、滑稽《こっけい》だねとそいつは笑った。そして語る。 「人体の一部を欠損して生きていくこと。これが何より怖かった。例えば手首が切り離《はな》されること。例えば足の指を全《すべ》て切断されること。……そうやって、身体《からだ》を壊《こわ》されて、それでも生きていくことが、怖い。何よりも、怖い」  そいつは、僕の顔を直視しながら、独白のように言葉を紡《つむ》いだ。 「切り離されるっていうのが怖いんだな。子供の頃《ころ》に読んだ小説がトラウマになっていると思うんだ。手首を切る犯人の物語があってね、赤ん坊の手を切るっていうのが、生々しくて鳥肌《とりはだ》立った」  思い出したのか、苦い顔をして首を振《ふ》った。  そして僕が何か言う前に、そいつはまた一方的に喋《しゃべ》った。 「つーわけで、僕の手首は切るなよ。呪《のろ》うぞ」  そう言われるとやりたくなるんだけど。 「底意地の悪い奴《やつ》だな、僕を見習えよ。僕は相手が言わなかったことを徹底《てってい》的にやってそれ以上の嫌《いや》がらぜに昇華《しょうか》させる。そして歯軋《はぎし》りさせながら、お門違《かどちが》いの文句を楽しく聞いてやる」  ……君、意地の悪さに底がないな。 「褒《ほ》めるなよ、図に乗るだろ」  詰《つ》まらなそうにそいつは言った。 「死の時はあれだ、人の腕《うで》の中が理想。けど正面からこう、覆《おお》い被《かぶ》さるように抱《だ》かれると、なんか生理的に受け付けないんだ」  トラウマの多い奴だな。 「トラウマは人生の証《あかし》っていうだろ」  言わねえよ。 「おひとつどうぞ」  お裾分《すそわ》けするんじゃねえよ。  僕のありきたりな返事にそいつは鼻を鳴らし、傷口に指を這《は》わせる。べたりと付着した血液を、湯煎《ゆせん》にかけたチョコレートのように指先で糸を引かせて弄《もてあそ》ぶ。  それから僕を見るそいつが、急に不敵な顔つきになった。 「僕はここで君に殺される。けどそれで終わりだ。君の殺人|鬼《き》役は、お終《しま》いだよ」  予言を突《つ》きつけてきた。朝の占《うらな》いぐらい信憑《しんぴょう》性が伝わってこない。 「僕が死んだことを知れば、そこから有能な探偵《たんてい》が君を犯人と割り出す」  ……なんだよ、探偵って。 「僕の知り合いでね、恨《うら》み辛《つら》み絡《がら》みという個人的事情の下《もと》に捜査《そうさ》に本腰《ほんこし》を入れて、君を見つけて解剖《かいぼう》ごっこでもして遊んでくれるさ。ドSでね、言葉|責《ぜ》めの神様みたいな奴なんだ。覚悟《かくご》しておくといいよ。……あーあ、もっと生きたかったね」  そいつは全く表情を変えないので、本気か判別しかねた。  でも仮にそうだとしても、その探偵と会ってみるのも一興だ。むしろ、そういうのも相手にしてみたい。それで、  鳥肌《とりはだ》が何より先だった。  ついで、恐怖《きょうふ》。  そいつの意志の明確な切り替《か》わりが、視界を揺《ゆ》さぶる。  僕の無様で滑稽《こっけい》な隙《すざ》を突き、そいつは反撃《はんげき》に打って出てきた。  そしてその直前、  僕が刹那《せつな》に見たそいつの口元は、こう呟《つぶや》いた。  凄滲《せいさん》に、口元を歪《ゆが》めながら。  何よりも堪《に》え難《がた》い愉悦《ゆえつ》を目に灯《とも》して、  嘘だけど  恐怖《きょうふ》が身体《からだ》を限界速度で反応させた。  それでも、遅《おそ》すぎた。  そいつが僕の膝元《ひざもと》に飛びかかり、諸手狩《もろてが》りのように足下《あしもと》を掬《すく》ってきた。倒《たお》れ込みながら振《ふ》り払《はら》ったナイフはそいつの頭部を掠《かす》め、数本の髪《かみ》を散らしたに過ぎない。  自分の間抜《まぬ》けと迂闊《うかつ》を呪《のろ》った。  背中から石の絨毯《じゅうたん》に転倒《てんとう》する。尖《とが》った石が背筋に刺《さ》さったらしく、息が詰《つ》まりそうになった。けれどそんな悠長《ゆうちょう》な行動を取る余裕《よゆう》はない。力ずくで引き剥《は》がそうと、ナイフを眉間《みけん》に刺し込もうとした瞬間《しゅんかん》、そいつはそれより早く負傷した左手を突《つ》き出し、その先に握《にぎ》った細長い何かを僕の右腕《うで》に押しつけ、その刹那《せつな》火花が散った。一瞬、目眩《めまい》がするほどの光が視界を舞《ま》った。  そして後追いで、焼け焦《こ》げた錯覚《さっかく》に囚《とら》われるほど鋭《するど》い熱と衝撃《しょうげき》が右手に走る。その隙にそいつは、叫《さけ》びながら僕の手を取ってナイフを奪《うば》い、逆に僕の右腕に突き刺した。今度はこっちが悲鳴をあげる番だったが、それさえもそいつは許さない。光が焼き付いた視界の中でそいつは僕の開けた口の中へ手を突っ込む。そして今し方のそれ、恐《おそ》らくスタンガンの先端《せんたん》を喉《のど》に触《ふ》れさせながらスイッチを入れた。針がそこから頭の頂点まで突き刺さったような激痛が襲《おそ》ってきた。急激な吐《は》き気と、気力の喪失《そうしつ》。顔の神経が麻痺《まひ》して涙《なみだ》と鼻水を抑《おさ》えきれなくなる。抵抗《ていこう》の意が失われたことを確認《かくにん》して、そいつは僕の口から手を引いた。 「嘘に決まってるだろ。僕を殺せるのは時間や心とかロマンチックが止まらないものだけなんだよ。血の滴《したた》りが止まらない殺人|鬼《き》は冷蔵庫の肉刺して寝《ね》ろ。そもそも生きてるのが嫌《いや》なわけないし。バカップルですから自分。つうか女|探偵《たんてい》なんか知り合いにいないし。もしそんな奴《やつ》と浮気してるのが恋人にばれたら死を選ばないといけないし。忍者《にんじゃ》かよ僕は」  饒舌《じょうぜつ》を振るいながら、僕の右腕からナイフを抜き取る。その痛みに、呻《うめ》き声もあげられない。顔の中に鉄柱を埋《う》め込まれたような、最悪の圧迫《あっぱく》感が僕から表現を奪《うば》っていた。  今の僕は、僅《わず》かに思考が働く死体に過ぎない。 「生憎《あいにく》、殺人|鬼《き》の相手は初体験じゃないんだ。……残念だったね、思い出せなくて」  そいつが何か言っているけど、よく聞き取れない。  この不快感から逃《のが》れたいとだけ念じていた。 「それにしても馬鹿《ばか》だなみーくんは。お前は不殺の信念を持つ主人公かって内心ツッコミを入れていたよ。トランペットに憧《あこが》れてショーウィンドウに張り付く少年かお前はとも思った。変身中は攻撃《こうげき》しない律儀《りちぎ》な悪の組織かとも思ったし、悪役の不幸自慢《じまん》を一字一句|逃《のが》さず拝聴《はいちょう》する正義の味方かとも思った。ついでに言えば、無人島に半年間|独《ひと》りで滞在《たいざい》して動物と楽しく話せるようになった奴《やつ》かと思ったし、SFパワーでタイムスリップして未来へ飛び、初めて言葉の通じる人に出会った奴かとも思った。そんなに僕のお話は興味深かったか?」  本当に、そいつの言うとおりだった。どうして僕は、即座《そくざ》に殺害しないことを前提に行動し、仲良く談笑に興じてしまったんだろう。間抜《まぬ》けという評価が生温《なまぬる》いぐらいの、敗因。  そいつが僕の脇《わき》に屈《かが》んだのが見える。太股《ふともも》の傷が開いたのか、「いてーいてー」と冗談《じょうだん》みたいにぼやく。そして左腕《うで》を取り、関節の部分に膝《ひざ》を当て、躊躇《ためら》いなく折ってきた。ぎいいい、と喉《のど》の奥から悲鳴が漏《も》れたけど、そいつは何の反応も見せない。それは多分僕が、死体の解体を行う時と同質のモノ。作業として行う時の態度。ついで、両足の首を折られた。その頃《ころ》には、痛みが麻痺《まひ》して、顔だけだったはずの鉄柱が全身に埋《う》め込まれたような不快感があるだけだった。  失敗した。  僕は、ムイシキにしか人を殺せないんだった。  僕が壊《こわ》されていく。いや、もう壊れてしまったのか。  先程《さきほど》そいつが、もう嘘《うそ》か誠《まこと》か分かりはしないけど言った恐《おそ》れが、少しだけ身に染みた。  死にたくなる。  死んで、不快と不自由な自分を終わらせたくなる。  目線で何とかそれを伝えようとしたけど、そいつは僕のことなんか見ていなかった。  ナイフから垂《た》れる、僕とそいつの血を暗闇《くらやみ》の中で目視していた。  区別出来ない、同じ色の液体。  ここで出会ったことが故意か運命かなんてどうでもいいけど、これだけは納得《なっとく》できる。  僕らは同類だ。  君の言うとおりに。  けど、だとしたら。  僕の予想通りに、なってしまった。  話し合いでは済まなかった。  それは僕が悪いのか。  順序を、間違《まちが》えたから。  話し合いを、先にしていれば、  何だろう。  友達に、なれたかな。  なりたかったのだろうか。  願い下げな気もするし、  心から、受け入れる気分でもあった。 「走馬燈《そうまとう》で、僕を思い出してくれ」  格好を付けたその言葉が、最後に聞こえる。  ああ、僕は、同類に殺される。 [#改丁] 四章、後始宋『解放』 [#ここから3字下げ] いちめんのしたい いちめんのしたい いちめんのしたい いちめんのしたい いちめんのしたい いちめんのしたい いちめんのしたい ちぬれまーちゃん いちめんのしたい [#ここで字下げ終わり] 「失敗した」  周囲を見渡《わた》し、一口感想。  前途《ぜんと》有望な家出少年と少女の死体が散乱している状態こそ成功の証《あかし》なのに。  転がってるのは、気絶中の殺人狂《きょう》だけ。 「しかし殺人犯のくせに僕を殺さないでくれるとは。友情を越《こ》えた何かのお陰《かげ》かな」  ただし下に越えているわけですが。  茂《しげ》みの奥を殺人|鬼《き》のライトで照らす。柳《やなぎ》の木が風に揺《ゆ》れているけど、幽霊《ゆうれい》はいない。 「浩太《こうた》君達はしっかりと逃《に》げたみたいだな……」  後は、僕とこいつがお縄《なわ》になってお終《しま》いか。世界が主人公なら天下無敵のハッピーエンドだ。  殺人鬼の黒いフードを外す。生徒会便りで最も自己主張の激しい、金子《かねこ》と同じ部活動の部長が、泡《あわ》と鼻水と涙《なみだ》を垂《た》らして昏倒《こんとう》していた。格好はつけたけど、殺してはいない。 「過剰《かじょう》防衛になるのかな」  どう考えても防衛ではなく、攻撃《こうげき》の範疇《はんちゅう》だし。 「けどお土産《みやげ》買ってこなかったし、仕方ないよなみーくん」  気絶中の菅原道真《すがわらみちざね》に話しかける。旅行先ではさぞかし人気者だっただろう。 「な、みーくん」  結局、一度としてその呼称《こしょう》には興味を示してくれなかった。 「やっぱり忘れてるんだな。僕と、マユと、自分のこと」  昔出会った時の僕はともかく、同学年の生徒の顔ぐらい思い出せばいいのに。  後はせめて、マユのことを覚えていれば……どうなったんだろう。  同類を求めている殺人鬼。  マユは、殺人犯の同類ではなく同型の方が適切だ。  複数形より、一人が二つと表す方が相応《ふさわ》しい。  菅原が欲しているものじゃない。  じゃあ、何が起きる?  ……何も、起きないのかな。  すれ違《ちが》って、末路はここなのか。 「いやー、男女の関係は難しいね」  経歴|詐称《さしょう》して同棲《どうせい》に持ち込んだ男子高校生の想像はここらへんが関の山である。  しかし、浩太《こうた》君達に吹《ふ》き込んだSF(少し不埒《ふらち》)物語はなかなかの出来だと自賛している。  監禁《かんきん》場所は目隠《めかく》しされて謎《なぞ》という方向にすること。特定の場所を指定するとボロが出るから。  犯人こと僕は両刀使いの上に子供好きという設定の変態《へんたい》にしよう。で、二人を外で嬲《なぶ》ろうとして連れ出したら、今をときめく殺人鬼《さつじんき》に遭遇《そうぐう》して、僕がそいつとドンパチやってる間に二人は二人三脚《ににんさんきゃく》的な連携《れんけい》で逃《に》げ出した。うん、完壁《かんぺき》。  僕の処女作は、二人の表情を実に微妙《びみょう》なものとした。嘘《うそ》だらけの話術で首を縦には振《ふ》らしたけど、オリジナルを尊重してくれるか些《いささ》か心配だ。世間に公表する前からアレンジされると、作り手として虚《むな》しい。 「大丈夫《だいじょうぶ》さ、素直《すなお》な良い子達……じゃ駄目《だめ》か」  それだとマユがブタ箱行きだ。次善の策は、穴だらけだ。 「……さて、あれに電話しないと」  嘘偽《うそいつわ》りなく不本意だけど。  携帯《けいたい》電話を取り出そうとして、手に握《にぎ》りしめているペン状の護身道具を思い出す。 「意外に役に立ったな」  スタンガンを手の中で転がしながら感謝。初日にクリア条件を達成しておいて良かった。 「けど、本当に失敗した」  菅原《すがわら》が二人を殺してから警察に告発し、捕獲《ほかく》してもらおうと計画していたのに。  家出|兄妹《きょうだい》、凶行《きょうこう》に巻き込まれとか勘違《かんちが》いの解釈が浸透《しんとう》して、口|封《ふう》じを行い、僕とマユの嫌疑《けんぎ》が晴れるのに最適だと目論《もくろ》んでいたのに。  必ず助けるから囮《おとり》になってくれって騙《かた》って、それを承諾《しょうだく》するあの子達もどうかと思うけど、本当に助けてしまう自分は完全にどうかしている。  菅原が浩太《こうた》君達の上で停止した瞬間《しゅんかん》、僕は自動で動き出していた。  手近な武器を拾い上げ、突進《とっしん》。  理知的でクールでアンニュイのうち、最後だけ該当《がいとう》する僕としてはあり得ない失態。 「……やっぱあれだ、ライバルを目の前にして血潮を滾《たぎ》らせたとか……うん、そんな感じにしとこう」  薄《うす》っぺらい理由を後付けする。僕は人情モノのお涙頂戴《なみだちょうだい》劇に滅法《めっぽう》弱いんだよな。嘘だけど。そもそも、あの子達を風呂《ふろ》に入れてしまった時点から、計画は破綻《はたん》している。 「……僕のやることだからね」  上手《うま》くいった例《ためし》はありません、と。 「はい、反省会お終《しま》い」  スタンガンをナイフと同じ方向に放《ほう》り捨てる。  パーカーのポケットから電話を引っ張り出し、最新に登録された番号を選択《せんたく》して通話ボタンを押した。トゥルルル掛《か》ける十五。 「……あ、もしもし……寝《ね》るなジェロニモ、仕事だ。ええ、仕事。懺悔《ざんげ》? 押入にお菓子《かし》を隠《かく》していたら腐《くさ》りました。……はい、殺入犯に偶然遭遇《ぐうぜんそうぐう》したんです。ええ、ぐ、う、ぜ、んです。一片の意志|介入《かいにゅう》の余地もなく天啓《てんけい》に従うことなく、運命の出会いを果たしたんです、とっとと捕《つか》まえに来てください。場所は公民館の近所の神社です。え、今? やだな、夜は眠《ねむ》るものですよ。はい、よろしく」  通話料が勿体《もったい》ないとばかりに繋《つな》がりを遮断《しゃだん》する。  画面に表示される、通話時間と料金を眺《なが》めながら、切れた電話の先の人物を思い描《えが》いた。 「思い出したよ、奈月《なつき》さん」  初めて会った時は、おねえちゃんって呼んでたことも。 「奈月さんは覚えてたのかな」  どちらにしても、尋《たず》ねたら『勿論《もちろん》一日たりとて忘れていません。むしろみーさんこそ忘れていましたね、思い出すのを一日千秋《いちじつせんしゅう》で待ち続けていました』とか言う。絶対言う。  八年前、監禁《かんきん》から解放された僕のもとに現れた警察のおねえさんは、そんな人だ。 「さーて、撤収《てっしゅう》しますか」  独《ひと》りで宣言《せんげん》し、立ち上がり、颯爽《さっそう》とその場を去る、ことが理想だった。 「あら?」  立ち上がれない。むしろ無様に倒《たお》れた。  菅原《すがわら》の隣《となり》に仲睦《なかむつ》まじく突《つ》っ伏《ぷ》してしまう。 「あららら、成長期によくある立ち眩《くら》み……いだ、ちょ、急にいて……」  身体《からだ》の穴空き部分に、熱が再発する。それに合併症《がっぺいしょう》として、一度消失した痛覚も蘇《よみがえ》ってきた。血の滴《したた》りが肌《はだ》から存分に伝わってくる。  この場を離《はな》れようとした途端《とたん》だ。誰《にれ》かがこの地《 》に白魔法《しろまほう》でも唱《とな》えててくれたのか。 「あー……それいい。誰かとの心の繋がりが僕に影響《えいきょう》して脳内|麻薬《まやく》を分泌《ぷんぴつ》してくれたわけだ」  エンドルフィン万歳《ばんざい》。持ち上げてやるからもうちょっと踏《ふ》ん張れ。  試行錯誤《しこうさくご》する。右|腕《うで》と左足だけで移動出来ないかと、墓場から脱獄《だつごく》したゾンビを真似《まね》て砂利《じゃり》の上に這《は》い蹲《つくば》る。 「ふね、ぬい、てや……くっ、ガッツが足りない」  左|腕《うで》が曲がらない。上半身が痙攣《けいれん》している。右足なんか赤色の噴水《ふんすい》が設営されて市民|触《ふ》れ合い公園一般開放寸前だ。これだけで人間の動きなど制限されてしまう。人を吹《ふ》っ飛ばしたり消えたり分身することは夢のまた夢だ。  胴《どう》部や頭以外は致命《ちめい》に成り得ないと勝手に思っていたけど、流石《さすが》に二ケ所も大穴を空けると危険なのか。あれかな、動脈とかが切れてるのか。バス釣《つ》り名人が徳川埋蔵金《とくがわまいぞうきん》を掘《ほ》り当てるぐらいあり得ない血の流出が、僕の体温を苛《さいな》む。やたら寒い。歯が噛《か》み合わなくなってきた。 「止血……」  保体で習った止血法は、血と共に真っ先に記憶《きおく》から失われている。行う気力もない。 「やべー……気がしないこともなきにしもあらずと言わざるを得ない。救急単の出動を要請《ようせい》すべきかな」  けどそうすると、叔父《おじ》達に何と言われるか。飛び降りの一件で心証は最底辺だし。終《しま》いには叔母《おば》の手で打ち首にされてしまう。僕への過保護はつまり、数字の一に酷似《こくじ》した形のアルファベットを、抱《いだ》いているということなのだろうか。もしそうであるなら、嬉《うれ》しいとか以前に、どうしてか説明を要求する。ついでに引き取ってくれた理由も耳の穴かっぽじるから聞かせてくれ。 「なひょひゃひぇー……」  こんな時でも欠伸《あくび》は出る。 「眠《ねむ》い……」  寝《ね》たら死ぬだろうか。夜なのに視界の端《はし》が白い。その白色がじょじょに裸《はだか》の天使様の形へと変貌《へんぼう》し、タンポポだらけの畑を耕《たがや》し始める。農耕《のうこう》民族に対して喧嘩《けんか》を売っているような拙《つたな》い手つきで農作業を繰《く》り返す連中の耳にタンポポの綿を詰《つ》め込んで帰れと怒鳴《どな》り散らしたら本当に人生の最後だけど、生憎《あいにく》そんなものは見えていない。精々、足のない人ぐらいだ。 「……あ」  昔もあったよ、こんなこと。  致命傷《ちめいしょう》を受けて、眠くなった時が。  その時の傷が今でも頭に残ってる。  隠《かく》す為《ため》に髪《かみ》を梳《と》かずに、伸《の》ばしていた時期もあった。  けど夏の暑い時期に鬱陶《うつヒう》しくなって切り落とした。  誰《だれ》に隠《かく》す必要があるんだと思い直したこともある。  あの時の爽快《そうかい》感は清水を浴びるより清々しく……あれ?  これって走馬燈《そうまとう》じゃん。 「ヤバイヨヤバイヨ」  三度目の正直ってやつか? 古人の言い分は真なのか?  ……試《ため》してみたくなる。  自分に根付く狂人《きょうじん》がそれを主張し、僕は二つ返事で受け入れた。  眠ることにした。  家族のこと、マユのこと、菅原《ずがわら》のこと、先生のこと、奈月《なつき》さんのこと、あの子達のこと、学校のこと、受験のこと、幸せのこと、みーくんであるということ。  全《すべ》てを置き去りにして、独《ひと》りで眠ろう。  生きることも死ぬことも望まず。  ひとやすみ、ひとやすみ。  僕は馬鹿《ばか》だった。  人がそこまで正直に生きるものだと、夢見ていた。  僕は、あの幼い兄妹《きょうだい》に最後に嘘《うそ》をつかれ、物の見事に騙《だま》された。  約束が守られなかったことを、僕は後日知ることになった。 [#改丁] 今昔物語『××とぼく』 [#ここから3字下げ] 大人はみんな死んでしまった。 ぼくのおとうさんも、まーちゃんのおとうさんとおかあさんも、いもうとのおかあさんも。 こわいと思った。うそです。 かなしいと思った。うそです。 泣きたいと思った。うそです。 うそなんです。 だってその言葉がなにをどうしてどうなっているか、ぼくにはなにも分からないんです。 ぼくは本当は、なにがどうなっているんですか? けいさつのおねえさんはなにも答えてくれなかった。 けいさつのおねえさんはやさしく笑って、たくさん泣いた。 [#ここで字下げ終わり]  おとうさんが、男の子と女の子をつれて帰ってきた。  男の子はかみの毛が短くて、目がぎょうぎょうと大きい。女の子は、チビで鼻が低くて、目を真っ赤にして、男の子を見ていた。二人は、からだを麻《あさ》のひもでぐるぐるにしばられて、口は布が巻かれている。  なんだか、へんだった。  お兄ちゃんが死んでから、おとうさんは少しおかしくなっていた。前はぜんぜんおしゃべりじゃなかったのに、とても明るくなったり。たまにラジオとお話もしていた。そのおまけにぼくにも声をかけてくれるようになった。ぼくは男だけど、死んだおかあさんに顔のかたちがにてるって言われて、その後なんでか分かんないけどたたかれたりかまれたりしていた。  おとうさんのようすをかいだんの上から見ていたぼくは、おくに行ったことを見てからいもうとのおかあさんにそのことを話しにいった。いもうとのおかあさんは昔のおとうさんみたいにいつもぶすーっとしてるけど、ぼくのことをたたかないから今のおとうさんよりはすきだった。  いもうとのおかあさんにおとうさんと男の子と女の子の話をしたら、すぐににげなさいってこわい顔で言った。それで、どこかのお家《うち》に入って、ゆうかいはんがいるって伝えなさいってぼくに早口で言った。ぼくは、なにがなんだか分からなくて、ゆうかい? って聞いた。いもうとのおかあさんは、もうちょっとテレビを見るようにってめずらしく笑いながら言って、ぼくの手をひっぱって立ち上がった。へやの入り口には行かずに、まどの方に近寄ってかぎをあける。まどの外はうらにわで、ぼくがよくいもうとにたたかれていた場所だった。いもうとのおかあさんはぼくをほうりなげるように外へ出そうとする。おかあさんはどうするのって聞きたかったけど、この人はいもうとのおかあさんだから、ぼくはどうよべばいいのかなやんで、動けずにぐずぐずしていた。  そして、おとうさんがすごくこわい笑い声をあげてへやに入ってきた。  いもうとのおかあさんがぼくを外につきとばした。  ぼくはひじを地面にうって血が出たけど、そんなことよりもおとうさんがこわくて、いもうとのおかあさんに言われたとおりにげんかんがわへ回ってとび出した。  外は田んぼばっかりでなんにもなくて、どこに行けばいいかぜんぜん分からなくて、でもまよってるのが一番だめだから、小学校に行くことにした。そのとちゅうによっくんのお家と竹田のおばあちゃんのお家がある。  ぼくが田んぼのまんなかを走っているとおとうさんがすぐにおいかけてきた。  いもうとのおかあさんはどうしたのって聞きたくて知りたくてこわくて、ふりかえった。  おとうさんの持っているバットの先に、赤いものがついていた。  それだけで聞かなくても知ってしまい、こわさに泣いた。  ぐんぐんと、大人の足がおいついてくる。ぼくは走るのはとくいだったけど、にげるのははじめてだからすぐにいきがあがってしまった。足も、地面をけっているかどうか分からなくなってくる。  そして、田んぼと道のさかいで足をひっかけて、ころんでしまった。  ぼくはいたくて、こわくてこわくてこわくてこわくてぶわってなみだが出てきた。  にげたくても、息をするのもくるしくて、からだがいたくて動かない。  けどやっぱり、それでもにげなきゃ、だめだったのに。  かげがぼくをおおった。  足を思いっきりふまれて、ゴリッてにぶい音がした。今までで一番いたい。  そのあと、バットで頭をたたかれた。  それはぜんぜんいたくなかったけど、すごくねむくなった。  おとうさんが、男の子と女の子をゆうかいして帰ってきた日の話。 [#改ページ]  僕が生きていることを三日後に知った場所は、やはり病院だった。  左|腕《うで》の肉が半分|削《そ》げ、右足の太股《ふともも》は血管がどうたらこうたらで重傷。  けれど、死の淵《ふち》に余程嫌《よほどきら》われているのか、生き残りだけは平然とこなした。  相手が興味を引く話を命|乞《ご》いのようにして、意識が内面に傾《かたむ》いた一瞬《いっしゅん》の虚《きょ》を突《つ》いて襲《おそ》いかかるという、三流の小悪党が悪あがきに用いる戦法で勝利して、僕は生き残ったのだ。  切なくなった。  自分がとことん主人公から縁遠《えんどお》いことに嘆《なげ》きつつも、勝てば官軍という勝者の論理が僕の小心を慰撫《いぶ》してくれることは想像に難《かた》くない、  はずなのだが。  目覚めてから更《さら》に二日が経過した十一月五日現在。  官軍どころか、言葉の監獄《かんごく》に囚《とら》われていた。 「たわけ」「は……」「どだわけ」「方言で罵倒《ばとう》されても」「くそどだわけ」 「それはロクデナシってことですよね」  奈月《なつき》さんの笑顔は今日も冴《さ》えている。灰色のスーツを着こなして髪《かみ》を下ろした姿は、就職活動中の大学生と紹介《しょうかい》されても『ウチは未成年は雇《やと》わないよ』としか言い様がない。  病院、昼下がり、独身|三十路《みそじ》のお姉さんという三要素が鏡餅《かがみもち》のように重なり、平手打ち警報が発令されている。波浪《はろう》注意報ぐらい無縁《むえん》であってほしいのに。 「それが先生からの伝言ですか?」 「ええ。あ、三つ目は私です」  他人の尻馬《しりうま》に乗って人を罵倒《ばとう》するねや、と言いたいところを堪《こら》える。  助けられた手前、どうにも強い態度は取れないのだ。  それに、この人に頼《たの》み事をして借りを作ったので、力関係を覆《くつがえ》すことが根深く困難の領域となってしまった。債権《さいけん》者と債務者の疑似関係を体感している気がする。 「後、二度と顔を見せるなと。これで再生|終了《しゅうりょう》です」 「……そうですか」 「あらあら、落胆《らくたん》しなくても大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。一週間もすればあいつの方が根負けしてここに来ますから」  教祖の如《ごと》き断定口調で予言を告げる。そうなるといいな、と少しだけ願った。  奈月さんが椅子《いす》にかけ直し、背筋を正す。 「で、偽《にせ》みーくんのみーさん」 「あのー、マユがいるんですけど」  いつぞやの誰《だれ》かさんと同じく、僕の脇《わき》で眠《ねむ》る健康優良精神|障害《しょうがい》児を指し示す。 「まあ、平日のお昼なのに何故《なぜ》ここにいるんでしょうか」 「そんなこと考えなくても分かるでしょう」 「金の無心ですね」 「考えろ」  疲《つか》れる。溜息《ためいき》ばかりが積もる人付き合いだ。  人のふり見て我がふり直せとは古人も上手《うま》いことを言うものだ。これからは人付き合いを程程《ほどほど》にして、地球に優《やさ》しい人間になろうと決意したの反対をした。 「さて、みーさん。幾つか聞かないといけないことがあります」  答えてくれますよね、と笑顔《えがお》で威圧《いあつ》をかけてくる。「どうぞ」と、勿論快諾《もちろんかいだく》した。 「まず……菅原《すがわら》君のこと。彼が犯人だと、いつ気付きました?」  最初から。 「いいえ、そんなこと夢にも思いませんでしたし夢も最近めっきりご無沙汰《ぶさた》で。不眠症《ふみんしょう》です」 「…………………………………………………………………………そうですか」  長考の間に二回ほど笑顔が崩《くず》れかけたけど、あくまで淑女《しゅくじょ》の微笑《びしょう》を顔から外さない奈月《なつき》さん、 「それで、家出から保護していた池田兄妹《いけだきょうだい》を家に送り帰そうとした、五日前の夜に偶然《ぐうぜん》、菅原君に遭遇《そうぐう》してしまい九死に一生を得て確保……」 「その通りです」  胸を張って答えた。今度は形だけでも納得《なっとく》してくれず、奈月さんの口端《こうたん》がひくひくと引きつる。僕だって、初回時は驚《おどろ》きを隠《かく》すのに苦労した。  僕とマユは家出の保護人。  警察の人に、あの子達はそう証言したらしい。  あなた疲《つか》れてるのよ、と忠告してやりたいぐらいの錯乱《さくらん》ぶりだ。  一度でも疑問系な素振《そぶ》りを見せれば嘘《うそ》と断定されるので、池出家族が揃《そろ》って見舞《みま》いに訪《おとず》れた時も、僕は口裏を合わせてしまった。その後は、両親の喧嘩《けんか》が一時的にせよ収まったことに感謝された。  ……そこで、何となく疑問が浮かんだ。自分に対して。  僕は本当は、それを狙《ねら》っていたんじゃないかって。  あの子達に好意的な態度を示して、良心を疼《うず》かせ、無罪の証言を誘導《ゆうどう》したんじゃないかって。  今も、その件については懊悩《おうのう》して、結論が出ない。 「菅原君の証言では、修学旅行から帰って翌日《よくじつ》、机を覗《のぞ》くと午後十時に指定地まで来いと呼び出しの手紙があったといいます。その呼び出し人は現れませんでしたけど、これは?」 「無責任な人ですねえ。その人の所為《せい》で菅原と僕、両方が迷惑《めいわく》を被《こうむ》りました」  首を振《ふ》り、仰々《ぎょうぎょう》しく包帯を巻かれた左|腕《うで》と、吊《つ》り下がった右足を悲しむ、 「……『殺人犯さん、僕は同類です』って書かれてたそうですけど、これは?」 「つまり彼は霊長《れいちょう》類ではなく、恐竜《きょうりゅう》人だということです」 「……手土産《てみやげ》付きですとも書かれてたそうですね」 「やっぱり土産物は名産品の鮎《あゆ》の甘露煮《かんろに》ですか。原産地の明記は言い逃《のが》れ対策にアジア」 「……池田兄妹《いけだきょうだい》を、深夜に帰そうとした理由は?」 「時期|尚早《しょうそう》のサンタクロースごっこです」  腹黒の人聞の白々しい態度に、奈月《なつき》さんも辟易《へきえき》している模様。珍《めずら》しく、目眩《めまい》を抑《おさ》えるようにこめかみに指を当て、肩《かた》を落として参った感を演出している。 「みーさんは本当に正直者ですね」  自分に、という恨《うら》み節の台詞《せりふ》が途中《とちゅう》に入っていることが伝わってくる。  嘘《うし》つきは自分に正直。  良い言葉だ、悪を退治した時の決め台詞にしよう。  悠長《ゆうちょう》にそんなことを決定していたら、奈月さんのおみ足が振《ふ》り上げられた。そして力を溜《た》めて振り下ろされる。尻《しり》で椅子《いす》が弾《はじ》かれ、中途半端《ちゅうとはんぱ》に履《は》いていたスリッパが爪先《つまさき》から射出されてベッドの下を滑《すべ》って通過し、壁《かべ》に特攻《とっこう》する。派手な演出で立ち上がり、僕のベッドの左側に回り込む。  大変よろしくない予感がした。 「狭《せま》いんですから詰《つ》めてくださいね」  笑顔《えがお》で邪魔《じゃま》者|扱《あつか》いしてきた。怪我《けが》人の僕を。肩《かた》を掴《つか》んで、右に押し退《の》けようとしてくる。 「ちょいとそこのおねえさん、僕の足を見てください」  吊《つ》ってあるんだぞ、動かすな。 「爪《つめ》はちゃんと切りましょうね」  面倒《めんどう》見の良いお姉ちゃん口調で僕の脇腹《わきばら》を蹴《け》り、強引にマユ側へ移動させて、空いてすらいない場所を無理矢理空き地にして不法|占拠《せんきょ》し、居座る体勢になってしまった。  どんな状況《じょうきょう》だよ。  真ん中に男、脇に女性二人で川の字を描《えが》く。表現だけなら男|冥利《みょうり》に尽《つ》きるけど、外に足を出せない僕が一番|狭《せま》いことを考慮《こうりょ》すれば単なる苛《いじ》めである。  奈月さんの手が僕の肩《かた》に添《そ》えられ、間近で顔を突《つ》き合わせることになる。顔の間に奈月さんの金糸のような髪《かみ》が散らばり、指で掬《すく》い上げたい衝動《しょうどう》が少し指先を焦《こ》がした。 「……僕の常識が間違《まちが》っているのかな。どいつもこいつも、見|舞《ま》いに来てプール開きの小学生よろしくベッドに飛び込んでくるのは公序良俗に基づく社会常識なんでしょうか」  歯軋《はぎし》りの酷《ひど》い背中のお嬢《じょう》さんも、ハローにワークな元医者も、人聞笑い袋《ぶくろ》の刑事さんも立派な人間社会の住人であり、僕だけが仲間外れで一人妄想《もうそう》した社会の観念に囚《とら》われているとでもいうのか。 「どいつさんとこいつさんは知りませんけど、私は最近|眠《ねむ》っていませんので。殺人犯を護身術の殺人|柔道《じゅうどう》で撃退《げさたい》した私は色んな方向に引っ張りだこで体と心を休める時間がないんです」  しれっと皮肉を言い放つ。口笛を吹《ふ》こうとしたらその前に唇《くちびる》をタラコに摘《つま》まれた。  そう、このお方こそ、今や時の人である上社奈月《かみやしろなつき》さん。未曾有《みぞう》の殺人事件を解決した、名刑事《けいじ》……と、されている。  僕が奈月さんに頼《たの》んだことは、菅原《すがわら》を確保した人の肩替《かたが》わりだ。  過去の事件とどんな形であれ、関係を残したくなかったから。  しかし、マユや先生との関係は出来るなら継続《けいそく》していくことになるであろう矛盾《むじゅん》。  いいのだ、矛盾を抱《かか》えて生きる方が人間らしい。 「ねえ、××ちゃん」  ざらりとした、砂を耳の穴いっぱいに詰《つ》め込まれていくような感覚が鼓膜《こまく》を震《ふる》わせる。  事件以来、ノイズとしか受け取れなくなってしまった、僕の名前が呼ばれた。 「あら、見事なしかめ面ですね」 「名前は嫌《きら》いなんですよ。僕が男という点を全く考慮《こうりょ》してないから」 「それだけですか?」  奈月さんが確信に満ちた笑顔で、柔《やわ》らかい追及《ついきゅう》をしてきた。恋日《こいび》先生の友人という時点で、その質疑への解答は持ち合わせているはずなのに。意地の悪さに底がないという評価は、是非《ぜひ》ともこの人にお譲《ゆず》りしたい。 「それだけですよ。でもそれがこの上なく嫌《いや》な反抗《はんこう》期少年なんです」  僕の受け答えとは対照的に、奈月さんは輝《かがや》きを目|一杯《いっぱい》トッピングした微笑《ほほえ》みを浮かべる。それから僕の髪《かみ》を手の平で、微風《びふう》のように撫《な》でつける。 「分かりました。では少し変化させて、これからもみーさんとお呼びしますね」  これからも末永くお付き合いする予定を既《すで》に入れられてるのでしょうか。  僕の困惑《こんわく》を無視して、奈月さんは本題に入った。 「菅原君は、マユちゃんの幼馴染《おさななじ》みさんで、みーくんなんですよね?」 「そうですね」 「で、みーさんは誘拐《ゆうかい》犯の息子で、二代目みーくん」 「いえいえ、ただの代理です。菅原が復帰すれば即《そく》お役|御免《ごめん》ですよ」  そんな日があるかは知らないが。  ……しかし、代理。それが果たせるということは、マユの記憶《きおく》に隙間《すきま》があるということ。  マユは、菅原とぼくのことを忘れて、みーくんを覚えている。  ここが曖昧《あいまい》だったりするのだ。  御園《みその》マユの視点における『みーくん』の基本構成は、菅原だ。誘拐以前の幼少時に坊ける二人の想《おも》い出《で》が下地になっている。しかし、菅原は事件の最中、虐《いじ》められる側から虐める側へ転向してしまった。ぼくの父親が冗談《じょうだん》で菅原《すがわら》にマユを虐《いじ》めさせたら、その見せ物が気に入られてしまったのだ。そして菅原は保身に走り、そこから齟齬《そご》が生じる。マユは、その現実を受け入れなかった。マユを傷つけたのは『知らない男の子』となり、同じ状況《じょうきょう》を共有していたぼくを『みーくん』と呼び始めた。有《あ》り体《てい》に言えばズレが生じたのだ。  マユの世界ではみーくんである誰《だれ》かが隣《となり》にいて、菅原は虐めてくる知らない男の子、ぼくは何処《どこ》にもいないことにされた。  そして、事件後には形不明の『みーくん』が自分を助けてくれたという都合のいい記憶《きおく》だけが彼女の真実となった。  だからマユは、両親がどうやって死んだか説明出来ないはずだ。 「……嘘《うそ》つきめ」  言う資格のない非難だけど。 「自嘲《じちょう》ですか?」 「何言ってるんですか、正直者に。僕は犬のポチがここ掘《ほ》れワンワンと鳴いたら、お前が掘れよ! と逆ギレするくらい正直ですよ、嘲《あざけ》るところなどありません」  自分でも最近、何を言っているのか分からない時がある。若年性認知|症《しょう》でも始まっているのか。  僕の髪《かみ》を楽しんでいた奈月《なつき》さんの手が、今度は腕《うで》に巻かれた包帯をさすってくる。傷は痛くないけど痒《かゆ》い。しかし掻《か》くことは禁止されている。一種の拷問《ごうもん》だ。 「後十分|遅《おそ》かったら出血死の確率が五割り増しだったと、お医者様が言ってました」 「お、お金ならありませんよ」  恩で強請《ゆす》られることに牽制《けんせい》をかける。奈月さんは気分を害した風もなく、続ける。 「恋日《こいび》が愚痴《ぐち》ってましたけど、みーさんは昨今の少年|漫画《まんが》みたいに、殺されそうになっても何故《なぜ》か死なないそうですね」 「まあ特徴《とくちょう》の一つでは……それ、愚痴《ぐち》なんですか?」 「うふふふふ」  じゃねえよ。  額を押さえたかったけど、右|腕《うで》はマユの腕|枕《まくら》として機能している。仕方なく、二酸化炭素だらけの息を吐《が》き捨てるだけに留《とど》めた。 「……確かに、死なないね」  死んだと思ったら生きていたは、これで三度目。  幼少期に金属バットでおとうたまに頭を殴打《おうだ》され、思春期にデパートの屋上から迷惑極《めいわくきわ》まりない飛び降りを果たし、成長期に殺人鬼である少年と戦って切り裂《さ》かれて。  人に庇《かば》われて生きることを継続《けいぞく》したのは、二度目。  年端《としは》もいかない兄妹《きょうだい》に嘘《うそ》で助け船を出されて、そしてもう一つ。  八年前、混乱したまーちゃんに襲《おそ》いかかられた時、妹の母親に助けられたこと。  胎児《たいじ》を守るように、ぼくを身体《からだ》でくるみ、抱擁《ほうよう》する。  幾度《いくど》も背中に突《つ》き立てられる刃《やいば》。  肉を貫《つらぬ》かれる感触《かんしょく》が、触《ふ》れる身体を媒介《ばいかい》にして伝わってきた。  何も言えなかった。何も反応出来なかった。何も見えなかった。  ただ震《ふる》えていた。  妹の母親は、そんなぼくの背中を抱《だ》き寄せ、あやすように叩《たた》く。  母親だから。  滴《したた》る涙《なみだ》と共に零《こぼ》れ落ちる、そんな言葉。  ×とかじゃなくて、ごめんね。  ぼくを助けた理由だということを、一ヶ月|経《た》ってから理解した。  マユが力|尽《つ》きて倒《たお》れ伏《ふ》しても、母親はぼくを抱《だ》きかかえていた。  死んでいた。  理解しても、動けなかった。  抱かれ続けた。  一度だけ、ぼくの母親となった人に。 「憎《にく》めない悪役は最後まで生き残るものなのですよ」  内面とは裏腹に、明るい声を出す。自分にも嘘《うそ》をついていることになるのだろうか。  奈月《なつき》さんはそうですか、とそれだけ言って黒豆の瞳《ひとみ》を表舞台に立たせる。見方を変えれば、裏表のない、澄《す》んだ眼《め》。人形の顔も人の顔も、人の意志が形作るのに差はない。微笑《ほほえ》みもまた同じ。 「恋日《こいび》、 曰《いわ》く」 「古人曰くみたいですね」  僕の茶々は無視された。 「みーさんは蛾《が》のようだと」 「傷ついていいですか?」  蛾て。蝶《ちよう》も縦ロールかはたまた仮面の怪人《かいじん》って感じでどうかと思うけど、蛾て。 「意味は私には分かりません。動物|占《うらな》いかなにかでしょう」 「なーんだ」  納得《なっとく》した。それなら蛾の人も大勢いるからいいや。徒党でも組むか。 「みーさん」 「今度は何ですかアメリカシロヒトリの話ですか?」  奈月さんは再会の約束を果たした恋人のような、後光さえ差す美の微笑《ほほえ》みで言った。 「私は貴方《あなた》を信じていました」  嘘《うそ》つけこの女郎《めろう》。 「先日、逃《に》げる鶏《にわとり》を剣《けん》で突《つ》くかの如《ごと》く犯人扱《あつか》いされたという記録が残っているんですが」 「やですね、菅原《すがわら》君が犯人だという話をしただけなのに自分のことと思い込んで、みーさんったら感受性が強すぎます」  お茶目さん、とか言いそうな勢いで肩《かた》を叩《たた》かれた。負けず嫌《ぎら》いはこれだから。 「……………………………………」  僕が犯人となっていたら、『みーさんが犯人と信じていました』だろうな。  まあいいや、これで僕とマユの罪は放免《ほうめん》、と。 「ほんとにみーさんったらかわいいんですから」 「そりゃどうもス」 「まるで歳《とし》の近い子供みたいです」 「近くねえッス!」  幾《いく》ら外見が若くとも、実年齢《じつねんれい》まで一緒《いっしょ》くたにされては敵《かな》わない。  しかし若者の主張は無視された。 「むしろ双子《ふたご》」 「まぼろしに包まれすぎッス!」  少年の叫《さけ》びは地獄突《じごくづ》きに喉仏《のどぼとけ》を潰《つぶ》されて死んだ。 「ぐえ」 「きっと、恋日《こいび》もおんなじです」 「だから、……げ」  背中から、うゆうゆと聞き慣れた目覚めの音がした。冷《ひ》や汗《あせ》が毛穴の前で噴《ふ》き出る準備をし始めているのが分かる,中古の扇風《せんぷう》機の首|振《ふ》り機能より緩慢《かんまん》に、背後を向いた。 「みーくん……」  目を擦《こす》り、僕の顔を確認《かくにん》する。何故《なぜ》だ、普段《ふだん》は三時間程度では目を覚まさないのに、今日に限って。エクスクラメイションマークを用いた会話をした所為《せい》か? 記号の自由も許されないでなにが言論の自由だ、なんてとち狂《くる》ってる場合じゃない。奈月《なつき》さんにレッドカードを渡《わた》して即刻《そっこく》退場してもらわないと。 「なつ……っく」  遅《おそ》かった。もう間に合わないことを悟《さと》り悔《く》やみ、唇《くちびる》を噛《か》む。  マユが覚醒《かくせい》した。  腕枕《うでまくら》に垂《た》らした涎《よだれ》をじゅっと吸い込む。  あ、真顔になった。  見てる見てる、僕の背中のパッキン女性を凝視《ぎょうし》してる。  今にも青筋が額に浮かび、「アパカッ!」とか叫《さけ》びながら顎《あご》を拳《こぶし》で打ち砕《くだ》きかねない。  今度こそ死んだかも。  しかも原因は冤罪《えんざい》。  報われねえッス!  けど相応《ふさわ》しい気もした。  嘘《うそ》の罪で殺されるなんて、狙《ねら》いすぎなほどだ。  南無《なむ》、と諦《あきら》めの境地に立つ僕に、救いの一手が、和《なご》やかな声で放たれた。 「お久しぶり、まーちゃん」  柔《やわ》らかい挨拶《あいさつ》。それを聞いて、この人が全《すべ》て知り得ていることを理解した。  マユの目が点になる。僕と奈月《なつき》さんを見比べる。  白ゴマのように美しい脳味噌《のうみそ》をフル回転させ、驚愕《きょうがく》の解答を算出した。 「みーくんが二人!」 「……いやいや」  申し訳程度に否定。自分の命はお大事に。  しかし、面白い。  マユが僕を、人をみーくんと認識《にんしき》する為《ため》に、鍵《かぎ》となるものがあった。  それは誰《だれ》でも使用出来て、けど僕だけが用いていたもの。  今し方奈月さんが呼んだ、『まーちゃん』だ。  みーくんとまーちゃんが、核発射スイッチと同じく二つの鍵となる。  つまりまーちゃんと呼べば、性別間わず誰でもみーくんになれるのだ。 「みーくんが一人、みーくんが二人、みーくんが三人……あわわわ」  地獄《じごく》絵図を見ているようだ。僕だって奈月さんが三人いたら二人は殴《なぐ》り倒《たお》す所存だから気持ちは分かる。 「夢だ、夢なのだ」  マユは夢のまた夢に逃《に》げ込むべく、眠《ねむ》りに落ちた。  危険が去ったことに、冷《ひ》や汗《あせ》も安堵《あんど》して引っ込む。 「みーくんは薄《うす》っぺらですね」  優《やさ》しい声色《こわいろ》の辛辣《しんらつ》な評価を頂戴《ちょうだい》した、振《ふ》り向きはせず、そのまま切り返す。 「今頃《いまごろ》気付いたんですか」 「今だから気付きました」  格好良く聞こえる言い回しだった。 「これからもみーくんとして生きるんですか?」  デートで昼食を取った後の予定を尋《たず》ねるぐらい軽い口調。 「……考え中です」  将棋《しょうぎ》のタイトル防衛戦に臨《のぞ》む名人級に厳粛《げんしゅく》な態度の返答。 「考えられることは幸せですね」  それを最後の祝辞として、後方からは寝息《ねいき》が上がり出した。  病院の硬《かた》いベッドはそんなに安眠《あんみん》を提供してくれるのだろうか。  寝《ね》ることだけが娯楽《ごらく》の入院|患者《かんじゃ》としてしか横たわったことのない僕には、見舞《ま》い客の心情は分からない。  仰向《あおむ》けになる。昔でも最近でも今でも、天井《てんじょう》は無駄《むだ》に漂白《ひょうはく》している。  やるべきことをやろうと思った。  高校二年生の秋も末。  少々早いが、進路|選択《せんたく》といこう。 「………………………………………………………」  心を廃《はい》して、けれど意志のあるいきものになりたかった。  それが自分の幸せだと信じていた。  けど、無理だった。  そんなものになれていたら、そもそもマユを助けようなんて、思わなかった。  ……中途半端《ちゅうとはんぱ》だ。  地下を掘り進めて、空が見えないほどの場所までたどり着いた。けど、行き詰《づ》まった。次の地層は決定的に異質で、シャベルを突《つ》き立てることも到底《とうてい》出来ない。それは物と者の境目か、はたまた想定されていない部位なのか。  計画性のない穴掘りは帰路となる足場も失われて、人並みの場所まで戻《もど》ることも許されない。  そしてそこで佇《たたず》む時間が長すぎて、光を怖《こわ》がる異物となった。 「……………………………………」  さあ、どうしよう。  これから僕はどちらに行けばいいのか。  ぼくに戻るか、僕であり続けるか。  退《しりぞ》くか、埋《うず》まるか。  マユのことも考えて決めないといけない。  僕であるなら、心を現状で維持《いじ》する必要がある。  マユと付き合うのに、健常な心は不適応だ。  けどもし、ぼくでありたいなら、いい加減に心を起こさないといけない。  眠《ねむ》ったまま人と付き合うのは失礼だろう。マユに対しても。  両|極端《きょくたん》な選択《せんたく》を決断する時は、限界まで期間を引き延ばして今に至る。  しかし考えることさえ放棄《ほうき》してきた自分は今その時、病院にいる。  病院という環境《かんきょう》には退屈《たいくつ》という時間が湯水のように溢《あふ》れて溺死《できし》しそうなほどある。  考えて、考え抜《ぬ》いて、考え極めることが許される。  不幸中の幸いというやつだ。 「……幸い、ね」  僕が奔走《ほんそう》して騙《だま》されて助けられた事件の中で、マユを守ることは出来た。  だから、僕らはこれから幸せ家族計画を築いていくのだ!  なんて単純に思考出来れば、それだけで幸福だよな。  今の僕は幸せなのか。  それなら迷う必要もない。  しかし、僕自身がそうでないと思っていたら。  新たな幸せはあるのか。  不幸の背景の中に、一点でも幸はあるのか。 「……あると、いいなあ」  たとえ感じられなくても、その中に身を置いている方が良い。  そしてそれは、紛《まが》い物の僕でも、出来損ないのぼくでも価値が損なわれることはない。  幸せに嘘《うそ》も本当もないのだから。 [#改丁] [#ここから3字下げ] あとがき [#ここで字下げ終わり]  このあとがきを書いている現在、本文は校正の段階で、イラストは透明人間の状態となっています。つまり順番としては、あとがきが真っ先に書かれているわけです。それなのにあとがきは、本書の一部となる際はひっそりと最後尾を定位置とするわけで、その謙虚《けんきょ》さは見習うべきだよなぁと、書いているうちに何やらあとがきという存在を尊崇《そんすう》しかけてしまいました。  はじめまして、入間人間《いるまひとま》と申します。以後、お見知りおきのほどをして頂き、それが有益な情報になるほど作家として生きられるのか? と書いているうちに疑問を覚えましたが、深くは考えないことにしました。持っている自信に根拠《こんきょ》がないので、守るのにも一苦労します。本書は大学一年生の春休み、『日本語は書ける』という社会を舐《な》めた理由で思い立った馬鹿《ばか》者が小説を書き続け、その結果の一つとして文庫化されるに至りました。その間に書き散らした約二十メガバイトの文章は粗大《そだい》ゴミではなく肥やしとなったわけですが、今改めて最初に書いたものを見てみると、人間の言語を解する蝉《せみ》が一週間を生き抜《ぬ》くという、毒にも薬にもならないような地味な短編でした。話の種にもならないあたり、やっぱり肥やしです。  本書が構成され、重量というものを得る過程において、様々な方から、人の力がいかにありがたいものであるかを学ばせて頂きました。  編集担当の小山様、三木様。このトンチキ野郎に辛抱《しんぼう》強くお付き合い頂き、謝辞の尽《つ》きることはありません。月並みですが、今後ともよろしくお願いします。  美麗《びれい》なイラストで本書を飾《かざ》って頂く左《ひだり》様。描《か》かれているイラストをネットで拝見した際には、本の中身を全部この人の絵にした方が売り上げありそうだよなぁと思ってしまいました。でもそれを発案して通った後のことを考えると戦々恐々《せんせんきょうきょう》として未《いま》だに言い出せません。  また大変参考になる注釈《ちゅうしゃく》まで添《そ》えて頂いた校正の方や、『印税の半分をお前から貰《もら》おう』という悪の親玉みたいな発言で励《はげ》ましてくれた友人や家族にも、深い御礼を申し上げます。  そして最後になりましたが、本書の重さを感じ取ってくださっているあなたに最上の感謝を。  ありがとうございました。 [#地付き]入間人間《いるまひとま》 [#改丁] 底本:電撃文庫「嘘《うそ》つきみーくんと壊《こわ》れたまーちゃん 幸《しあわ》せの背景《はいけい》は不幸《ふこう》」 (株)メディアワークス    二〇〇七年六月二十五日 初版発行